泉信行さん(ブログ)の新刊『漫画をめくる冒険別冊 リーフィング・スルー/オンルッカー』(告知ページ)を手に入れて読んだので、簡単に感想をば。
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 視線の力学の部分の、実際の漫画の場面で例証している所が相変わらず面白かったです。

 右から左へと流れる「ベクトル」の存在とその効果を語っている訳ですが、抽象論に終始せずに、実際の例を見せて読者に体験させてくれるのが、前作『漫画をめくる冒険』上巻から続くいずみのさんの良い所。

 具体的には、『ネギま!』の実例を使っていた所とか。

 刹那のバトルシーンの所など、確かに最初のコマはスローな浮遊感が出てるし、最後のコマは目的へ向かっての疾走感が出てるわー。

 あと、ナギと敵キャラのシーンで、右左反転させることで、ナギ−敵キャラの主客の解釈が変わって感じられるというのも非常に分かりやすかったです。

 「ベクトル」も物理的には目に見えない、人間の認知(物理的には脳)に備わっている抽象的な存在だと思うんですが、そういった存在をこういった具体例の積み重ねから読者に抽象させることで目に見えるものにしていくっていう作業は、さながら投影魔術(Fateのね)のよう。前の感想記事でも書いたけれど、僕がやっていた言語学の統語論と似たような所があって(あれも目に見えない「文法法則」を具体例から抽象して視覚化するという超抽象学問)、大変興味深いです。というか明らかにジャンルとして漫画論だけじゃなくて認知科学に踏み込んでいるので、僕がやっていたことと重なってくるのは当然なんですが。

 後はこの右から左に流れる「ベクトル」の存在が、習慣の産物なのか、生得的なものなのかという所に少し議論が踏み込んでいて、習慣説ならまあ右から左に読む日本式と、左から右に読む英語圏式とは違うだろうといった話とか、そして生得説としては、富野監督があげていた人間の内蔵の左右非対称性や、右脳と左脳、果ては地球の自転方向の話とかがそれぞれ出てきている訳ですが、とりあえず両方の可能性を踏まえておきながらも本書内では結論は出さず。まあ、これも認知科学の分野で長い間延々と議論されているトピック(生得VS習慣)なので、そう簡単に結論は出せなくて自然なんですが。

 ただ、僕がわりと惹かれている認知科学上の説を上げておくならば、認知でも言語の部分においてチョムスキーが中期(かな)にあげていた「原理とパラメータの理論」ですかね。

 これは止揚的というか、認知上生得的に全人類的に決まっている部分と、後で経験・習慣を通してパラメータが設定される部分とがある、という説です。言語なら、動詞の存在とか、普遍的に見られる部分もあれば、SVO(英語など)語順かSOV(日本語など)語順かのように、後から経験・習慣で設定されて発現する部分もある、という説です。

 この理論をかなり僕は支持しているのですが、それを踏まえるなら、漫画の文法にも、全人類的に生得的に備わっている部分と、後から習慣によってパラメータ設定される部分とがあるんじゃないかと思いました。右から左に読む日本式の文法が構築されるか、左から右に読む英語圏式の文法が構築されるかという辺りは、パっと見習慣によるパラメータ部分っぽい気がしますし。

 そんな感じで、漫画文法獲得の、生得性部分と習慣によるパラメータ部分を分離して考えていくというアプローチは、まあ認知科学では結構使っている人がいるアプローチですが、漫画文法の認知基盤に関して考えていく上でも有用なのではないかと思いました。

 あとさらに認知科学ジャンルから提供できる知見としては、ベクトルが右→左の向きで存在していると空間的に捉えるだけじゃなくて、最初に知覚した箇所→後から知覚した箇所という、時間的な流れの中に存在している可能性は考慮しなきゃなと思いました。

A 太郎が 花子を 殴った
 S(主語)O(目的語)V(述語)

 と、

B John hit Mary
 S(主語)V(述語)O(目的語)

 との違いは、こうやって文書上で文字として考える場合は、「A」はOVの順でOが左にきて、BはVOの順でOが右に来ると、視覚的な左右の話になりますが、時間が停止した文書上の話ではなく、時間が流れている音声発話上の話になると、「A」はOが先に発音され、「B」はOが後に発音されるという、時間上の後先の話になります

 つまり、視覚的な右左の問題で、右に来るのが重要で云々という話ではなく、知覚する時間上先に来るのが重要なのではないか?という時間上の先−後が問題になってきます

 漫画文法、「ベクトル」もこの話にあてはめて考えるなら、「ベクトル」が右から左に流れて存在していると捉えるよりも、単に我々は最初に右側のページを知覚し、後から左側のページに読み進めていくから。そういった「知覚する時間的な後先」が、これまでいずみのさんが指摘してきたような、ベクトルにまつわる事実(右から左に流れる感じとか、右が主体で左が客体とか)を説明する際も有効で、さらにはより広範囲な現象を説明するのに有益である可能性がある、ということがあります。

 上で指摘した、日本式の右から左に読む文法と、英語圏式の左から右に読む文法の違いなんかは、この「知覚する時間差」で説明した方がスマートに説明できる気がします。つまり、視覚的に日本では右からだとか、英語圏では左からだとかではなく、文字列表記の関係で(日本では右上から、英語圏では左上から時間的にも読み始める)、日本では時間的に最初に右側のページを知覚するから主体が右側のページに置かれ、英語圏では時間的に最初に左側のページを知覚するから主体が左側のページに来ている、という説明です。

 わりと、色んな局面で時間的に最初に知覚した方を重要なものとして人間は認知するというのは認知科学の分野で言われていることなので、そういった視点も入れて検証してみると、この「ベクトル」の話はより学際的になるかな、と思いました。

 という訳で、また漫画論というより認知科学の方向でアカデミックな感想になってしまいましたが、学際的な広がりは歓迎な方向だそうなので、まあ、こういう感想も、と思います。

 続く『漫画をめくる冒険』下巻も楽しみにしていますー。

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