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 セカンドシーズン第14話「歌が聞こえる」でピンときた人は「そ、そういうことだったのかー」とマジでピンときたんじゃないかと思うのですが、一応、ネタ元というか、作り手が意図して作中の構成に盛り込んでるんじゃないかと思われる現実現象ネタ、メタネタなんかを気付いた範囲で。
 ものすごく、現代型というか、2008〜2009に放映してこそ意味があるガンダムだったんだなー、とも。
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・前回第14話「歌が聞こえる」の感想(こちら)でだいたい書きたいことは書いたのですが、頂いたWEB拍手の一つが、

>「適材適所」「傍観者からの意識改革」...ダブルオー感想から引用したキーワードです。これは、このところの経済論の流行りですね。流行りというより奥義だと思いますけど。つまり、今の状況を作ったのは自分たちの経済活動だ、心のままに行動した結果だ、ということ。そして、誰しもが無縁ではないということ。起きていることの影響からは誰も逃げられないし、誰もが対抗し、誰でも改善することに貢献できる、という論理展開を、名の売れた論者たちがやってます。兵役制度があろうと無かろうと、広い意味では誰でも戦士なんですね、やっぱり/リュー

だったりなんですが。
・で、これは、燕。さんにダブルオーはドラッカーですよ!ドラッカー!と以前言われて僕もパラパラとドラッカー読んでなるほどと思ったんですが、ドラッカーという人は経営学者として知られているだけじゃなくて同時に社会幸福論的なことも語っておられた方で、「イノベイター」っていう言葉もドラッカーの論の中に出てくるんですね。で、イノベイターに関するドラッカーの主張をかなりシンプルに言ってしまうと、「イノベーションとは少数の天才が成し得るものではなく、そういう仕組み・組織・体系を作ることが重要なのだ」って感じなのです。ようは、少数の変革者ではなく、みんな。
・なので、ダブルオー作中のイノベイター達は、少数の選ばれた人間を超えた存在が、トップダウン式に世界を統治して新たなステップに人類を導こうとしているという、本来のドラッカーの論とは真逆の立ち位置で、おそらく皮肉になっているんだろうと。
・で、そこから、近年の経済論者達の主張をゆくが如く、傍観者から脱した一人一人のミクロな力が、やがて大きな力になるという、第14話「歌が聞こえる」のメッセージ。なんて、経済ガンダムだったのか、と(4クールアニメを作る準備期間が2〜3年とすると、ちょうどドラッカーが没した頃から?なんても深読みできたり)。
・要するに、ファーストシーズン序盤のソレスタルビーイング、セカンドシーズンのイノベイターといった、少数の「変革者」によって、世界の動向とは決定付けられるものではなく、世界中の一人一人のミクロな意志・行動の集積の結果、一人一人が自分の場所で自分ができることを精一杯やった結果(適材適所)変わっていくんだ、と。全てはそこに持っていくための物語だったのだと。
・また、初代ガンダムと似ているオーガンダム、地球連邦設立までのファーストシーズン、仮面の男、などなど、ファーストガンダムとのメタな連続を所々に意識させる作りになっているガンダムダブルオーな訳ですが、これがおそらくテーマ的にもそうだったんじゃないかと。
・ファーストガンダムがブレイクした要因として、アムロとガンダムは何度も戦局を変える働きはしたけれど、一方でそれでもただの一兵士に過ぎないという悲哀が描き込まれている。こんなに頑張っても世界の大局にはなんら影響を与えられない悲しさみたいな部分に当時の視聴者層が共感したんだ、という話を読んだことがある、というかわりと聞くことがあるんですが、要は、ダブルオーはそんなファーストガンダムへ対する現代版のアンサーだったんじゃないかと。「頑張っても世界の大局にはなんら影響を与えられない悲しさ」という部分に対して、そんなことはないと、ミクロにでも傍観者意識を変えて自分ができる精一杯をやっていけば、それが集積した時、必ず世界の大局にも影響するよと。マリナ様がみていた子どもにできる精一杯の「歌う」という行為にすら意味があるよ、と(実際、戦時下だからこそこういった文化的な営みが大事だと僕も思いますし)。それが、第14話の、変革者(リボンズ)VS変革者(CBとしての刹那)の戦いを、ミクロで無力なはずのマリナ様がみていた子ども達の歌が止めるというシーンに込められていたのだろう、と。
・って感じである種、打倒ファーストガンダムになってる作品だと思うんだけど(これは、後続の富野作ガンダム以外のガンダムではしょっちゅう意識されることではありますが)、そのダブルオー作中の仇役リボンズの声が、他ならぬファーストガンダムのアムロの古谷徹さんとか、メタネタとしても完璧ですよね。
▼他
・これも燕。さんの第14話感想からだけど、そうか、Mr.ブシドーは、ギャグだけじゃなく、無機質化する戦争に対して、武士道っていう精神的、人間的なものを掲げてるっていう真面目な意味合いもあったのか。ファーストシーズン初期の見下ろす構図から、相手のことなど考えてもないかのように巨大ビームで一掃するティエリアの戦い方(ティエリアの物語はそういった人間味の無さから、ニールロックオンとの交流を通して人間味を獲得するまでの物語)、同じく見下ろす構図から非人間的にオートマトンを落下させるセカンドシーズン第05話のアロウズの作戦、そして、相手を人間とも思わず上空から見下ろして一掃するメメントモリ、というように、作中悪の思想として描かれる、「戦いにおいて相手を人間と思わない、相手はどうでもいい」という部分に対する、最高のカウンターなんだな、ミスターブシドーは。だから、相手の人間性がどうでもいいというそれら悪役とは異なり、相手(刹那)にブシドーは異様にこだわっていると。「愛」だと(笑)。これは、ブシドーも最後の大破壊時(ガンダムシリーズは終盤に大抵起こる)には協力してくれそうだな。行動原理が自分で決めた戒律に赴くままなので(それこそ武士道に)、ラスボスのやり方が「気に食わん!」の一言で仲間になってくれてOKのキャラだ。好き放題に気に入らないアロウズの作戦からは離脱してた描写や、ワンマンアーミーという設定もそこに繋がりそう。

1/100 ダブルオーライザー ~ガンダム00(ダブルオー)シリーズ~
1/100 ダブルオーライザー ~ガンダム00(ダブルオー)シリーズ~

→前回:セカンドシーズン第14話「歌が聞こえる」の感想へ
→次回:セカンドシーズン第15話「反抗の凱歌」の感想へ
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