SEEDの福田監督のSEED-Club-Mobileの2月10日の日記の話が良かったです。
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 飾ったものよりも、生のもの、本当のことが喜ばれる時代。

 ユーザーの夢が壊れるであろうリスクに言及しながらも、制作者側の生々しさ、厳しさなんかをありのままに発信していった方がかえって信用してもらえる時代になってきたのではないかという趣旨の見解を書いておられます。

 まったくの同意で、これからの時代は、着飾られた「コンテンツ」よりも、それに携わる生の「人間」を見られる時代になるだろうと感じています(前に経済の記事で書いた、人間回帰の話もこの方向/「信用の崩壊」って)。

 一昔前はメディアが限られていたので、新人賞を受賞するだとか、コネだとか、何らかの方法でマスメディア(特にテレビ、あとは新聞、雑誌など)で表現を発信できる側に回れた人がいわば「特別」で、一般ユーザーはそんな特別な人達が発する権威性に裏付けされた情報・娯楽をトップダウン式に受け取ることしかできませんでした。

 そこでは、特別で権威に裏付けされた人達というのは、「裏側を見せない」という部分が重要な意味を持っていました。とにかく特別ですごい人達な訳ですから、何かマズイことであるとか、あるいは如何にも一般人的な苦悩なんかは、見せないのが美徳でもあったし、そういうのが見えないからこそ、無条件で凄い人達が言ってることだから……と一般ユーザーはその情報・表現に権威性を感じることができていたのだと思います。

 しかしながら、これも何度も書いていることですが、現在はメディアが多様化した上に、誰でもWEBで情報も娯楽も発信できるようになってしまったため、そういったかつてメディアの発信権を持っていた一部の人達の「特別」性が大幅に減衰される運びになりました。

 そこで明らかになってきた、今まで特別だと思っていた人達の、不正や偽装……なんて状況が現在な訳です。

 だとするならば、そんな不正や偽装に彩られるまでに虚飾した表面上のコンテンツだけよりも、泥臭くても等身大の裏側も見られた方が信用できる。そう考えるユーザーが増え始めているのは、ある程度道理のように思えます。

 ざっと世の中を見渡しても、そっちの流れが顕著ですよね。

 漫画やアニメの界隈を見渡しただけでも、『バクマン。』はそういった今まで隠してきた部分を見せている顕著な例ですし(しかもそれがユーザーに受け入れられてヒットしている)、『ラブひな』や『ネギま!』の赤松健先生なんかがWEBのご自身の日記で制作過程の裏側のかなり「生」な話をかなり前から公開しているのはよく知られたことです(これも、赤松作品ファンにはプラスに働いてる例に思えます)。

 個人的には、コピーライター業界でも、強力な権威性を演出した「とにかくすごい人です」「とにかくすごい商品です」系統のコピーよりも、送り手の等身大が垣間見えて信頼がおける、安心できる系統のコピーに、よりユーザーは惹かれ始めているという現象を感じています。

 私的な感覚の部分でも、僕、とくにリアルの面識無いのにかがみさんの日記ずっと読んでるんですが、彼が現在とりかかってる著書(たぶん学術的な宗教論関係なのかな?)は、その制作過程を、苦しい時もノリがいい時もずっと日記で追っているがゆえに、やっぱり感情移入しちゃって、出たら絶対買おうと思ってたりしますもの。

 「等身大の自分だってきっと愛せるから」と、確か僕らが青春時代の頃に流行ったミスチルの歌の歌詞だった気がしますが、ここにきて、等身大の送り手だってきっと愛せるから……という時代に入りつつあると個人的には感じているのでした。

 声優さんや新人アイドルさんにおいて、「ブログでの生の声」がかなりの広報効果を最近は締めているのもそんな現象ですね。虚飾のアイドルよりも、等身大の頑張ってるお姉さんに惹かれる人が増え始めている時代なのかもしれません。

・ちなみに別に回し者じゃないのですが、SEED-Club-Mobileはそういう意味でSEED関係の作り手(というか福田監督)の生の声、一次情報が聞ける唯一の媒体なので(雑誌ですら、普通かなりの程度編集の装飾が入るので)、有料ですがSEEDファンにはお勧めです。年末にネット上の偽情報に真正面から踊らされている人に会ってビックリしたことがあったので、一応、情報リテラシーの基本として、大事なのはやっぱり一次情報ってことで。劇場版SEEDはばっちり制作中だそうですよー。