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●仮面ライダーディケイド 第25話「外道ライダー、参る!」/穴にハマったアリスたち
それに付け加えるなら……
今回のシンケンジャー世界で、メタ解釈的に、ディケイド作中の「世界」=各フィクションの原典……という比喩だとだいたい分かりやすく描かれたので、それを踏まえるとコンプリートフォーム登場回である第21話「歩く完全ライダー図鑑」 の感動が改めて爆現するという話ですよ。
おそらく、この回で作中で使われた「旅」という言葉=「読者が自分にとって大切な作品(原典)を探す過程」……な訳ですよ。
僕、このコンプリートフォームが登場する数分間と、『映画プリキュアオールスターズDX』ののぞみがラブに手を差しのばしてラブが手を取る所から始まる手繋ぎの数分間とを、仕事の合間にもう何十回も見てしまっているんですが、マジ凄いよね。
音也が、
「この世界で生きろ」
「おまえの旅は終わったんだ」
という訳じゃないですか。これは、もうこの世界(作品)が一番なんだから、次から次へと作品を追い続けるのなんてやめろって言ってるようなものなんです。
情報爆発社会なんかを背景にした世相にもマッチした展開ですよね。最早フィクション(作品)を含めて、情報が溢れすぎていて、昔みたいに国民的作品なんかが生まれる時代はとっくに終わってしまった。奈須きのこさんなんかが日記や各種インタビューで時々言っているように、作品がもの凄く高速で「消費」されてしまう世の中。そんな世の中ではもう、自分にとって一生ものの作品、自分の世界と言えるようなフィクションに出会えるなんていうのは夢物語なのかもしれない。そんなものを追い続けるのは、最早滑稽ですらある、と。
TGクラブとか、井上さんはまた凄いセンスだなと思ったけれど、あの滑稽さは意図して演出したものな気がしてるんですよね。夏海が自分の世界を探して行った滑稽な行動を、現代消費社会の中でもがいている人間の滑稽さと重ね合わせるのはさすがに深読みし過ぎでしょうか。
だけど、士は音也の方を否定して、夏海のような、「自分にとっての大事な作品探し」=「旅」を肯定する訳です。
「違うな、人は誰でも自分のいるべき世界を探している」
「そこへ行くために人は旅を続ける。そして旅を恐れない。」
「その旅を汚したり、利用したりする権利は誰にもない!」
この回の音也は、鳴滝さん以上の作中悪だった気がするんですよね。鳴滝さんは偏重な原典主義者って感じだけど、裏返せばそれは一つ一つの原典を尊重しているとも言える。それに対して、この回の音也は、一つの原典をこれが最高だと押し付けているんですよ。この原典さえあれば、他の作品なんて必要ないと。
現実にもこういう人はたまにいますが、それだけは士としても肯定できない訳です。一つの原典を押し付けられて旅を終えてしまったら、そこで人間の想像力は閉じてしまうから。想像力の枯渇という、全てのフィクションに対する大問題。
この一大問題を相手にした所で、夏海から作中で「宝物」と称されていたケータッチが士に渡される訳じゃないですか。そこで、ついに士(ディケイド)自身がファイナルカメンライドして、コンプリートフォームに変身。一つの原典だけが押し付けられて、全てのフィクションの源になる想像力が枯渇するのだけは避けなくてはならない。だから、ここだけは全フィクション共闘体制。
そこで、遺影のように並べられた歴代平成仮面ライダー達が輝きを取り戻し、ケータッチのそれぞれの作品のトレードマークが、キュピーンと光る所が、もう僕は感動してしまいましたね。
10年分の原典、どれ一つとして死んではいないんだよ、と。どの作品もが、誰かにとって、大事な原典(世界)なんだから、と。そこで最初に龍騎サバイブをディケイドが召還した所で、ああ、確かに自分、真司くんがどういう想いでサバイブカードを切ったか、まだ覚えてるよな、と。あの第34話ラストとか伝説だよな、『龍騎』まだ死んでないよな、と本当に思ったという。
次から次へと新しい作品を過剰消費して、エラそうに批評しては切り捨てていくといったタイプの話とは真逆の、「何か」がこのコンプリートフォーム登場にはあったと思うのです。やっぱり、コンセプトとして表面上「世界の破壊者」をコピーにしながら、逆接として一度一度のフィクションの輝き(Dasein!)を復権しようとしてるんだろうな、ディケイドという作品は。
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