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このコンテンツの過剰消費時代。小説も漫画もアニメも超高速で消費され、一定期間ばーっと盛り上がっては、数ヶ月から早ければ数週間、数日で人々の記憶から作品が消えていく時代において、20年前のコミックスを後生大事に持ち続けて、こうして大人になってから本棚から取り出しているという事実が、最早奇跡的に感じられる昨今です。
このような『ドラゴンボール』は残り、現在の沢山の作品は残らないという現象を、時代が変わったのだと結論づけるのは、なるほどその通りだと思います。『ドラゴンボール』が全盛期だった、一つの大きいメディア(まだチャンネル数が少なかったTVや、当時の週刊少年ジャンプのような時代の権威雑誌)をみんなで共有している時代とは今は違うんだ。インターネットをはじめメディアは細分化し、それにともなって人々の嗜好も多様化した、こんな時代では、もう『ドラゴンボール』みたいな時代に残る大きい作品は生まれっこないよ、と。
これは現代のコンテンツ産業、もっと大きく娯楽産業の状況を適格に捉えていると僕も思うのですが、今日の話の趣旨はちょっと違っていて、いやいや、『ドラゴンボール』には、そういった価値観・嗜好が多様化して、「人それぞれ」が正義になってしまった時代にも左右されない、もうちょっと「普遍的」なものが宿っていたんじゃないのか? というのが、今日話してみたい題材であります。
相対主義といいますか、「人それぞれ」は確かに最もなんですが、それだけに固執してしまうと、とにかく自分の自我を押し通すためにだけ使われる、都合の良い合い言葉になってしまいます(人それぞれなんだから何をやってもいいんだろ、という考え方を押し進めていくと、人殺したっていいんでしょ、人それぞれなんだから、になってしまう)。なので、嗜好の部分での「人それぞれ」を尊重しながらも、そういうのに左右されない、人間全体に、世界全体に通じる「普遍的」なものも想定して追求してみようという姿勢は、特に「人それぞれ」が矮小な自分を正当化するための免罪符に使われがちな今・これからの時代では大事になってくるのではないかと個人的には思います。
さて、その『ドラゴンボール』に宿っていた「普遍性」ですが、それは簡単に言ってしまえば『ドラゴンボール』という作品のテーマです。
もちろん42巻まで続いた長いシリーズ作品ですので、作中には複数のテーマがあり、それぞれが絡み合い、絡み合っているからこそダイナミックに物語が展開していくのですが、今回は、あえてそんな複雑に絡み合っているタペストリーの中から、一本の糸を抽出してみようという試みです。
具体的には、『ドラゴンボール』という作品を語る際に良く語られる、「敵キャラが味方化する」という現象に関して、一本の芯、法則のようなものを抽出してみます。
当時のジャンプ黄金期だったら、『キン肉マン』に『魁!!男塾』などなど、敵キャラが味方化する漫画には事欠かなかった訳なのですが、『ドラゴンボール』は、それらの漫画作品の中でも、敵キャラが味方化する現象に関して、一本の芯を作品のテーマ性に絡めて通していたように思います。
ようは、ピッコロとベジータは仲間になったのに、フリーザとセルは討伐されたのは、何故だったのか? という話です。
そこに何かの法則性を見いだせればそれは当然抽象されたものですので、個別のエピソードを表面的に追うよりも、もうちょっと奥の『ドラゴンボール』という作品の核(コア)、テーマとでも言うような「普遍的」な何かが見えてくるのではないか、という試みです。
それでは、この記事の最初の着想は友人のやまなしレイくんのこの記事↓
●コルド大王は“旧世代の象徴”だったのだと今更ながらに気付きました/やまなしなひび
から得ていると前置きした上で、その『ドラゴンボール』のテーマを見ていってみましょう。
◇
まず第一に、仲間になったピッコロ(マジュニアの方)は悪いヤツではあったけれど、作品全体の解釈としては悪役ではない、というのが僕の解釈です。
何故なら、彼は親であるピッコロ大魔王の意志を受け継いで、悟空に勝負を挑んでくるというキャラだったから。
そして同じように、仲間になったベジータも、悪いヤツではあったけれど、作品全体では悪役ではなかったのだと思います。これは、彼も親の意志を受け継いでいた点、また、自らの子どもを尊重した点に同じように求められます。
やまなしレイくんが指摘している通り、「人造人間編」にはまず間違いなく、悟空と悟飯、ベジータとトランクスという、「親子」というテーマがあったと僕も思いますが、このテーマはもうちょっと前から作品には組み込まれていて、『ドラゴンボール』という作品全体を貫いているくらいの核なのではないかというのが今回のお話です。
セル戦の最後の悟空(親)の意志を継いで戦う悟飯(子)という絵が、非常にメッセージ性の高いシーンで、『ドラゴンボール』という作品全体を通しても非常に肯定的なニュアンスで描かれているという点に疑問を持つ読者はそんなにいないと思うのですが、だとしたら、ピッコロ大魔王(親)の意志を継いで悟空に向かってきたマジュニア(子)という絵も、決して否定されるべきストーリーラインではなかったのだろうというのが浮かび上がってきます。そして実際、悟空はマジュニアの方のピッコロにはトドメを刺さないという判断を下します。
ベジータ・ナッパ戦でピッコロが悟飯を庇って息絶える所とか、僕は小学生の時に読んで泣きに泣いた訳ですが、あの感動がどこから来るかというと、単純に孤独だったピッコロが悟飯に絆を感じて庇ったという点にあるだけじゃなくて、ピッコロがピッコロ大魔王という親の意志を果たそうとして果たせなかった存在であるという所に深みがあるのだと思うのです。つまり、ピッコロは親から生まれてくる子という存在の大事さを知っていた。だからこそ、敵ではあったけれど、悟空の「子」という存在である悟飯を大事に思ってしまった。子を想う親の気持ちと、親を意識する子の気持ちには、敵味方のボーダーがなかった。そこが感動的だったのだと想うのです。
で、これがもう一人の敵だったけれど味方になったキャラのベジータにも通じるんですね。ベジータはひどい悪人なんですが、悟空がそんな悪人のベジータを認めている点を描写しているのに重要なシーンは、最初のベジータ戦終了後の「もったいねぇ」もそうなんですが、それ以上に、ナメック星でベジータが息絶える際に涙ながらに惑星ベジータ消滅、サイヤ人滅亡の顛末を述懐した所でしょう。ベジータ、悪人だったんですが、サイヤ人の王である父の意志は継いでいたんですよ。そして、そのベジータの父を殺したのも、悟空の親であるバーダックを殺したのも(これは悟空は知りませんが)、フリーザです。
ここに、「親の意志を継ぐ子」という本当の意味での作中正義に属しているピッコロ、ベジータと、そういった繋がりを蹂躙する存在としてのフリーザという、本当の意味での作中悪、という対立構図が見て取れます。つまり、大きいスパンではピッコロもベジータも敵役ではなく、「親の意志を受け継ぐ子」という作中正義側のキャラクターだったのだということです。だから、仲間になってしかりだった。
この、「親の意志を受け継ぐ」、もうちょっと広く、「親から子へ、そのまた子へ」という作中正義を否定する作中悪の概念が、「不老不死」と「完全体」です。
フリーザはもう本当に作中悪最右翼で、親と子の繋がりを蹂躙するだけじゃなく、ドラゴンボールを使って「不老不死」になろうとしているんですね。「不老不死」は、親の存在も子の存在も必要ない、自分だけで永遠に存在できればいいという概念ですので、前述した「親から子へ」に対して、明確な対立概念、作中では悪役概念です。ゆえに、フリーザは同じ悪役サイドで登場してきたキャラでも、ピッコロやベジータと違って、悟空達の仲間にはならないで討伐された、そういうことだと思います。
さて、もう一つの作中悪概念である「完全体」ですが、これは「人造人間編」のラスボスである、セル完全体を指します。
レイくんが指摘している通り、親子のネガティブ描写たるコルド大王(親)と復活フリーザ(子)が、ベジータ(親)の子であるトランクス(子)に瞬殺されるというオープニングからして「親と子」というテーマが顕著だったこの「人造人間編」でしたが、大まかには、悟空と悟飯、ベジータとトランクスというポジティブ描写の親子二組と、ドクター・ゲロと人造人間達というネガティブ描写の親子との対照で物語が進んでいくんですね。
で、もともと悟空と悟飯らと違って、ドクター・ゲロとの絆が断絶していた人造人間サイドは、最終的にセルが「完全体」という概念を持ちだして、もう一つの作中悪であった「不老不死」と同じように、自分一人で完全だ、ということを言い出します。そこには、親から子へ、子からまた子へ続いていくという、『ドラゴンボール』の作中正義である「連鎖」がまったくありません。
ゆえに最後は、悟空、悟飯親子と、ベジータ、トランクス親子と、完全体セルとのバトルとなる訳です。
その中で、一人で完全、死んでも(コアを破壊されない限りですが)何回でも蘇れるという親から子への人間の連鎖を否定するかのような存在であった完全体セルを打ち破ったのは、結局最後にトランクスが撃たれた時になりふり構わずセルに向かっていったベジータの気持ちであったり、最後の悟空と悟飯の親子かめはめ波であった、と。ラスト、一人で完全なセルを打ち破るために、ずっと弱気で戦闘に消極的だった悟飯が、悟空の意志が宿ったかのように片手でかめはめ波を撃とうとする(それはピッコロ大魔王の意志を継ごうとしたピッコロと、父である王の意志を継ごうとしたベジータと、根本的には同じ衝動だ!)、戦う意志を見せる……という所は今でも思い出しただけでジンときますね。
最後に補足としては、この「親から子へ」が作中是で、「一人で完全」や「不老不死」が作中悪だったというのは、「人造人間編」の後日談、人造人間の中でも一人で完全をうたったセルは討伐されたけれど、18号は生き残ってクリリンと子をなした……というあたりからも伺えます。18号もピッコロやベジータと同じく、敵から味方になったキャラな訳ですが、ここにも「親から子へ」というテーマが関係しているというのが見て取れると思います。
そんな訳で、フィクションを過度に現実に写像するのもよくないかもしれないですが、とりあえずは現実の僕らも無から急に生まれて永遠に存在できる訳ではありません。何かしら親のようなルーツとなる存在がいて、自分が死んだ後に残るのは基本的には子のような自身から生まれた何らかの存在だけ。そういう意味でこの「連鎖」は、表面的な嗜好のそれぞれを越えた、何らかの真実めいた「普遍性」を捉えているようにも思えます。
『ドラゴンボール』に時代に残る作品としてのテーマ性が宿っていたのだとしたら、その辺りの「親から子へ、子からまた子へ」を大切なものとして描いたあたりにあるんじゃないのかな、という今回のお話でした。
ドラゴンボール 全42巻
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