未だに僕の中で全然色褪せてないからなー。
 フィクションから影響を受けすぎるのもどうかという部分はありますが、これの第34話を見てなかったらおそらく今の僕はなかっただろうという。
 ◇

 そして、当初の目的だった会社勤めかアカデミック関係の仕事をしつつも、どこかで母親を見捨てた罪悪感にさいなまれているというどうしようもない28歳になっていた気がする(昨日誕生日だったんですが!←どうでもいい!)。

 二重の意味で、第34話は私的ターニングポイントでした。あれを見ていなかったら、その後の2004年9月に、まず勝ち目がない絶体絶命の状況で24時間介護しながら起業するという決断はしてなかったと思います。

 ターニングポイント一重目は単純にSEEDのストーリーから受けた感銘で、第34話は凄かった。

 DVD最終巻のラストエピソード(追加されているヤツ)で、カガリがラクスに行動の源泉を尋ねたときにラクスが答えた、SEED作品上も一番重要な場面だった訳なんですが、キラが泣きながら、それでも戻ると言ったので、というところ。

 34話でラクスが問いかけた時点で、キラは表面上環境的には第1話「偽りの平和」と同じ場所にいた。何となく平和で、戦争なんかは遠い世界の出来事だと再び目を瞑ってしまうこともできた(ガンダムだから「戦争」だけど、ここは現実の様々な「ツライ・厳しい環境・事柄」に置き換えられる)。

 しかも、この時点ではキラはフリーダムガンダムの存在なんて知らない訳ですよ(試してるラクスもいやらしいけど!)。勝ち目ゼロ。自分が行った所でどうにもならないことは分かっている。それでも、この現実を変えたかった。戦争という現実を身を以て知ったのに、遠い世界の出来事と逃げることはもうできなかった。それでも守りたいものがあった。だから泣きながら、それでも戻ると答えた。

 世界・環境は、ナチュラルとコーディネーターという「カテゴリ」に依存した大きい流れのまま戦争という一方方向に流れていて、流速は速く質量も莫大。そんな中で、後半でこそ実は最強のコーディネーターだったとか明らかになるけれど、この時点ではキラは本当に何もないボロボロの一人間、ただの少年ですよ。自由になるのは自分の意志のみ。

 そんな風前の灯火の男の子の意志が、あんなにツライ目にあったのにもう一度川に飛び込むって言うんですよ。だって流れの方が、現実の方が違うと思うから。このままだと大切な人達が死んでしまうから。

 本当に微かな、だけど強い、少年の中に生まれている方向性。事実、少年はボロボロに泣いている。なのだけど、ラクス視点からすれば、そんなボロボロの少年の中に生まれた何かに賭ける気になったのがカッコいい。押し返せるかは分からないけれど、激流に一石を投じるなら、賭けるのはここだった。ザラ議長の息子だからとか婚約者だからとかじゃない(アスランはこれ以前にラクスジャッジにかけられて失格判定を下されている(笑))、ナチュラルだからとかコーディネーターだからとかでもない。このそういったあらゆるカテゴリを無視して、それでも泣きながら戻ると言っているキラという個人に賭けてみよう。

 「君は誰?」
 「私はラクス・クラインです」

 フリーダムガンダム出撃時のこのやりとりは凄い。「あなたが優しいのは、あなただからでしょう?」から仕込まれていたピースがカチリとハマり、作品全体の絵が浮かび上がった瞬間。

 キラという個人に賭けた。だとしたら関係は等価。私も、コーディネーターでもクラインの娘でもなく、ただの個人としてのラクス・クラインである、と。だから私も私の歌を歌うから、と。キララクいいよねー(そこか!)。

 まあこの辺りはフィクションならではで、僕が起業を決断した時は導いてくれたヒロインとかいなかったのですが(汗)、今まで身を置いていた大きい流れを断ち切っても、何もない絶体絶命の状況から自分の意志を貫くということができたのは、学生時代の多感な頃にこの第34話を見ていたことが関係していると、今考えてもどうしても思ってしまうのでした。

 ◇

 ターニングポイント二重目はメディアとの関係の中のSEEDで、今でこそ僕はWEBを活用して集客諸々も行うビジネスが生業の自由業ですが、はじめてメディアとしてのインターネットの潜在能力を実感したのが、SEEDを通してでした。

 まだTwitterはおろか、ブログも流行し出す前でした。SEED放映当時にHTMLで手打ちしたアナログなホームページで、上で書いたようなSEED第34話に関するコラムを学生時代にアップしたのですが、それが、一日で2000ユニークくらい読まれて、人生初の「自分の文章を多数の人に読んで貰える」体験をしたのでした。

 今だから技術として身に付いて当たり前になっている感じですが、無名の(当時)大学生が書いた文章を一日で2000人が読むという状態は、やはり何かしら革命的なものを感じます。しかも、広告を刷って2000人に配ったのとはまた違うんですよ。かなり積極的に読んでくれる人が2000人です。これは、シンプルに「何かを多くの人に伝えたい」という部分に特化した場合、コストパフォーマンス的にビラを配るのとインターネットとでは戦力差があり過ぎる。

 母親が倒れて起業を決断した頃は、ホリエモンが時の人だった頃で、ホリエモンが本で大学生はWEBを使って起業すればいいのにみたいなことを書いていた訳ですが、まさか本当にそれを使って起業する決断を下す運びになるまでは、上のようにインターネットの潜在能力を早い時点で実感していたのが大きいです。WEBでの集客を生業にしている(当時の)業者が1日1000アクセス集めるので成り立っているのを見て、いや、これなら僕は2000集められるし、何とかなるんじゃないか、と思ったのでした。

 ちなみに、はじめて雇われる立場以外で手にした収入も、SEEDのDVDのアフィリエイト収入でした。どんだけSEED様々だって感じですが(笑)、当時は満身創痍のボロボロだったので(学生時代のバイトの貯金はまだあったけど)本当ありがたかった……。

 まあここまでは私的思い出話ですが、関連づけてメディアとSEEDを語ってみるなら、僕が上記のような学生時代だった2002年〜2003年辺りのSEED放映当時が、マスに訴えかける作品が成り立つ過渡期だった気がします。『化物語』2巻BDが3.9万枚、『けいおん!』1巻BDが3.3万枚でBDとしてはTVアニメ歴代トップだと話題になる現在に比して、SEEDのDVDは130万枚以上売れている訳で、13巻で割っても1巻10万枚と言う。単純な枚数を比較して優劣を出すのがここでの目的ではないので細かい環境の比較は置いておきますが、取り上げたいのは、「マス度」みたいなものです。『化物語』や『けいおん!』が嗜好が多様化した世界の中での一定の嗜好に訴えかけての成功という感じなのに対して、『SEED』はギリギリ「マス(大衆と言ってもいいかも)」に訴えかけて成功していた。

 イメージとしては、『化物語』はネットで視聴してTwitterやはてなダイアリーの一定の嗜好層の中で楽しまれている感じで、『SEED』はギリギリみんながTVの前で見ていて、ネットで語り合うと言っても2ちゃんねるとか、個人のサイトの掲示板みたいなところしかなかったイメージ(これらはTwitterのリストやはてなアンテナなんかよりは嗜好の絞り具合が弱いと考えます)。

 これらの現象に関しては、作品としてのクオリティどうこう以前に、メディアの変遷に目を向けた方が読み解きやすい気がします。SEED放映当時こそ、まだニュースをTVで見ないでネットでだけ見る人が話題になる感じでしたが、今とか、TVで見ないどころかメディア経由の情報は自分のTwitterしか見てない人とか普通にいますからね。普通のブログやホームページのURLすら、自分のTwitter上に現れたのしか見ない、みたいな。SEEDの頃に比べて、さらにメディアは嗜好を細分化する方向に進んできた感じです。こういう状況では、なかなか大きいマスに訴えかけられる作品というのは生まれにくい。全員で共通の作品を見るという時間が、それぞれが勝手にTwitterやったりmixiやったり携帯ゲームやったりする時間に取って代わられているのです。

 しかし、卵が先か鶏が先か的で、かつそんなに影響あるものなのかとか影響の力学は分からずとも、SEEDという作品自体に、そのような嗜好の細分化を押し進めるような要素があったとも僕は思います。

 強いメッセージ性で、「カテゴリから離脱して自分の意志で行動しよう」と言ってしまった訳なので。

 ある大きいカテゴリの中でできるだけ人々の意志・価値観・嗜好が統一された状態で、その大きい意志向けの作品を作っていけるならマス向け作品を成り立たせるのに都合が良かったのに、SEEDはカテゴリを離脱するのもアリだと言ってしまった訳なので。

 現に、僕なんぞ影響を受けて起業してしまいましたし。そして、起業してる人って、マス向け作品を成り立たせる条件であるテレビは、まず観てないという(自分に必要な情報を集めるのに効率が悪いので。それくらい徹底しないと起業家は生き残れない)。

 それにも関わらず、各種インタビューやSEED_CLUB_MOBILE内のコラムなんかを読むと、福田監督や送り手としては、あくまでSEEDは限られた嗜好向けじゃなくて、マス向けにこだわる方針みたいだという。い、いや、自分でそれが成り立つ前提条件をブチ壊しにかかってたじゃん、みたいな。

 この辺りの矛盾を含みつつもやってやれ感があるSEEDには、

ラスボス:「フフフ、どちらか一人しか助けられないぞ、さあどうする?」
主人公:「俺はどっちも助けてみせる!」

 みたいな少年漫画ノリを感じます。放映当時疑問だった、なんでジャンプの感想書いてる人とSEEDの感想書いてる人は重なるのか? という疑問に6年越しの解答が!?(本当か!?)

 そうして実際、カテゴリが無効化されてしまった後のもっと深刻な相対化という題材を扱って、シン、アスラン、キラの三主人公同格相対正義というトリッキーな続編であるDESTINYも、ギリギリマス作品として成り立たせたのが恐ろしい。何が正しいか分からなくて視聴者をも巻き込んで混乱の中作品は進んでいき、最後に迷走に迷走を重ねたアスランが、

 「なんであれ、望む心があなたですわ」

 とラクスに言われて、結局自分で決めるしかないんだと再びインフィニットジャスティスに乗って出撃する所は感動的過ぎです。あそこはスペシャルエディション3巻版がいいのです。一瞬だけ交わしたラクスとアスランの視線に、「かつて婚約者同士だったけど」というニュアンスを読みとるのが通の視聴の仕方!

 ◇

 こうして、メディアは代わり、時代は変わり、SEEDから6年後。エラくマス向け作品を成立させるのが難しい時代になりました。僕の感じてる範囲内で、今ギリギリマス向けで通してるアニメ作品って、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とプリキュアシリーズくらい(だからこの二つを僕はエラく追っている訳ですが)。

 今、マス向け作品を通そうとするなら、もう、表面的な嗜好の差異を超えて、人間存在として普遍的に共感を呼ぶという辺りに深く回帰していくしかないのかな、と思います(作品内容としては)。ヱヴァ・破の、何が正しいとか全然分からないし、世界のことも自分のことも全然だけど、とりあえず好きになった女の子だけは命がけで助けたい、とか、だいぶ普遍的な感じを僕は受けましたね。その辺りは、SEED_CLUB_MOBILEの福田監督コラムにあった、劇場版SEEDの脚本は「愛」をテーマにしようと一旦進めたんだけど、結局その最初の案からは再考してるみたいな趣旨の話は興味深いです。「愛」か……、「愛」は確かに恒久的な訴求力がある題材だけど、その「愛」の内容自体が個々で多様化してる感がある時代なので、普遍「愛」みたいなのを表現するのは難しそうだな……的な。あくまでマス向けにこだわるなら、このマス向け作品を狙うには絶体絶命に近い時代で、何を打ち出そうとするのか、という。

 と、なんだか長くなりましたが、SEEDのDVD-BOX発売決定記念に久々に書いてみたSEED話でした。

 BOX、スペシャルエディション3巻がつかない点は残念ですね。「鳴動の宇宙」のキララク追加シーンとかは見られないということか。まあスペシャルエディションはあっちはあっち単体で外箱とか凝ってるんで別に買えばいいのですが。

 あと、会員制サイトのSEED_CLUB_MOBILEの情報なんで書いていいのだろうかと思いつつ、まあディープに困る情報でもないよなと思って書いちゃうんですが、時期とかまでは明記されておらずとも、DESTINYのBOXの方も出す予定はあるとSEEDBOX告知ページに書いてありました。まあ、SEED出してDESTINY出さないのもあり得ないので、そりゃそうだよなという情報ですが、参考までに。

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