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 CLAMPの『ツバサ』がこの前めでたく最終巻も刊行になって完結したので、意外と誰もやってない気がするメタフィクションとしての『ツバサ』の魅力を簡単に総括してみます。
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 今年(2009年)単体であげるなら、「オリジナルとシミュラークル」というテーマで世に出たメタフィクション作品としては何と言っても『仮面ライダーディケイド』なんですが、先行して神髄を描ききったのは『ツバサ』だったと思います。

 この辺りの話を簡単にまとめると、例えばディケイドだったらオリジナル作品としての『仮面ライダーブレイド』の主人公の剣崎くん(キャストもオリジナル)と、ディケイド内の二次創作世界『ブレイドの世界』の主人公のシミュラークル剣崎くん(剣立という名でキャストもオリジナルとは別な方)の二人が『ディケイド』という作品には出て来て、それらで、オリジナル作品(原作)とシミュラークル作品(二次創作・リメイク・メディアミックスなどなど)との関係を「メタ」にテーマとして表現しているっていう話であります。

 そして、この関係が、『ツバサ』ではそのまま真・小狼、真・さくら(オリジナル)と、写身小狼、写身サクラ(シミュラークル)の両方が作中に存在しているという形でテーマとして描かれているという。

 つまり、オリジナル万歳という価値観を押すなら真・小狼と真・さくらだけが肯定的に描かれ、二次創作もアリだっていう価値観なら写身小狼と写身サクラもアリだと描かれる可能性があったと、一つは考えられた訳です。

 さらにツバサの場合は二重にメタで、主人公である、真・小狼、真・さくら、写身小狼、写身サクラが、それぞれ『カードキャプターさくら』というオリジナル作品のキャラクターのシミュラークルになっているという点です。

 実際、『ツバサ』が連載開始した当初は、オリジナル作品至上主義の『カードキャプターさくら』ファンからは原作『さくら』への冒涜だ的な意見も出されましたし、一方で形は違えどまた小狼やサクラに会えて嬉しいというシミュラークルもアリだ的な意見も出されました。そういう意味で、『ディケイド』を通して描いているメタフィクションを、現実世界も含めて『ツバサ』は5年ほど先取りしてやっていたと言ってもいいです。

 また、ガイドラインとかはありますが基本的にユーザーによる自作の二次創作を認めているCLAMP自身がこの題材を扱っているという点に凄く意味がある気がします。

 と、「CLAMP自身は二次創作を認めている」という点で既に解答を先取りしちゃった感ですが、CLAMPが、というか基本シナリオの大川さんがこの「オリジナルとシミュラークル」というテーマに『ツバサ』を通して描いた結論が、こちら↓

 僕的に09年、というか地球上(笑)のフィクション史上の神シーンです。マガジン発売日にコンビニで立ち読んで(笑)クラクラしました。

さくら(サクラ)ふたり

 最終回近辺の最クライマックスの見開きですが、簡単に説明するとラスボス相手にヒロインが最後の攻勢に出るというシーンです。

 そして、結論としては、真・さくら(オリジナル)と写身サクラ(シミュラークル)の共闘。だいぶ単純化して言ってしまえば、オリジナル作品も二次創作作品も協力しないとラスボスは倒せない、みたいな感じでしょうか。

 で、「ラスボス」の方、オリジナルと二次創作が協力して何に立ち向かっているのかという点なんですが、これは表面的にはラスボスの飛王というキャラなんですが、もっと概念的には、『ツバサ』には「閉じた輪」という概念が最後の方に出て来ます。

 SFに馴染み深い方向けに言えば一種の「ループ」で、真・小狼から写身小狼が生まれ、写身小狼からまた真・小狼が生まれるので、永遠に同じ場所をじゅんぐりじゅんぐりと回っているという概念です。これを「オリジナルとシミュラークル」のテーマに結びつけるなら、個人的な解釈ですが、「ずっと同じ作品だけ創って/読んで、新しい作品が生まれてこない想像力が枯渇した状態」なのかな、と思っています(『ツバサ』では作品開始時の舞台と最後の舞台が同じ場所(クロウ国の遺跡)というのも示唆的です)。

 その状態はいけないということを描いているので、おそらく大川さんは二次創作にしろ何にしろ、想像力から何かが生まれていくことは尊いんだってことを表現していたのかな、と。何しろ最終回の結論では存在論に突入して、真・小狼(オリジナル)から生まれた写身小狼と四月一日(シミュラークル)が、

 「おれを存在させて(産んで)くれてありがとう」(四月一日君尋)

 という台詞を真・小狼(オリジナル)に告げるという結末ですので。

 で、そういったオリジナルとシミュラークルが和解する結末に向けての最クライマックスが上で引用したダブルさくら(サクラ)の絵のシーンで、おそらくは意図して、どっちが真・さくらでどっちが写身サクラなのか分かりづらくしてますよね。

 さらに、『ツバサ』では二つ、相似、シンメトリーという表現が意図して沢山使われてきました。クロウ国の相似の建物しかり、「東京」の二つのビルディングしかり、キーアイテム「二つの卵」しかり、何度も繰り返されてきた、真・小狼VS写身小狼の構図しかり。

 そういった仕込みが、最クライマックスで爆発している訳です。何度も書いてますが、このダブルさくら(サクラ)のシーンは何か凄い領域を表現していますね。

 しかもしかも、上述の想像力が枯渇した状態である「閉じた輪」を抜けるのに、オリジナル作品の方の『カードキャプターさくら』のオリジナルさくらちゃんが『ツバサ』にも登場して、写身サクラに星の杖と「無敵の呪文」(オリジナル『CCさくら』ファンはこれだけでピンとくる象徴)を託してくれるというシーンが最クライマックス前に挿入されていたりもします。もう、明確にオリジナルからシミュラークルへの応援ですよね。それらの全てを受けて、作品タイトル『ツバサ』にかけて、「翼は相似で両方なければ飛べない、真・さくら(オリジナル)と写身サクラ(シミュラークル)、二つ揃って、想像力が枯渇した場所から飛んでいける、『閉じた輪』は抜け出せる」というのを、上の神シーンで表現しているという。どうでもイイ私事として、僕のペンネーム(相羽)に込めてた意味をめちゃくちゃ先取りされていたりもしました。なんだか知らないけど毎年僕の誕生日に単行本が刊行されて、最終巻も誕生日刊行だったということで、何かしら運命的に縁がある作品だったのかもしれないです(笑)。

 作品のエンディングも、「次」に続いていく感じです。それはその通りで、想像力の翼がある以上、シミュラークルにしろ新たなオリジナルにしろ『作品』は創られ、読まれ続けていく訳ですので、しかりです。小狼の旅はまだまだ続くよ、CLAMP作品も創作物諸々も、まだまだ続くよ的なエンディング。

 そういう訳で『ツバサ』は凄いメタフィクションだったと思うのですが、5年以上前にシナリオの大川さんがこんなことを考えていたというのが凄いです。ディケイドの企画が出るよりもおそらくずっと前、しかも各種インタビューから読みとるに、大川さん以外はCLAMPメンバーにも先の展開を教えていなかったという。なんか凄い話を思いついてしまった! とニヤニヤしながら(いや、ニヤニヤしてたか分からないですけど!)、週刊漫画誌の長期連載という送り手としてはハードな形にも関わらず、世の中を巻き込んで最終回まで表現しきったというのが凄い。

 尊敬する圧倒的な物語師にして、その想像力を表現仕切ったCLAMPだったと思うのでした。今年は、フィクション史的に何とも凄い年でした(まだ終わってないですが!)。

p.s.これらの話の参考としてやや「批評」と呼ばれる世界に近づくと『動物化するポストモダン』辺りの東浩紀氏のデータベース理論なんかがありますが、複雑になるので今回は言及しないです。「シミュラークル」とかの用語は氏の本での使われ方にだいたいよってるつもりです。

ツバサ 28―RESERVoir CHRoNiCLE (少年マガジンコミックス)
ツバサ 28―RESERVoir CHRoNiCLE (少年マガジンコミックス)

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