オンの正体は毅波秀明。
演出や劇外要素的には、「第弐門の最初に第壱門の最初の相手と戦う」、「第弐門から入った読者は気になって第壱門を買う」辺りがありそうです。
あとは毅波秀明如きが疑似陸奥になれてしまうことで、「陸奥園明流」という部分での九十九のアイデンティティ、オリジナリティを脅かしにかかってる……というのが一番描きたい部分なのかな、と思います。ケンシン・マエダに敗北してしまったかもしれないという話や、格闘技界が総陸奥園明流亜種とでも言うような総合格闘技隆盛になってしまっていて、九十九個人のアイデンティティは「陸奥園明流」に頼りにくくなっている話などから、じゃあ九十九は何故に九十九なんだ、という辺りがここまでの第弐門の流れだと思うので。
しかし、最近発売した雑誌「プリキュアぴあ」のインタビューにあった、「グローバリズムへの反抗」みたいな話を思い出したりもする流れでした。便利さを共有する余り、世界中で同じ商品を使い、同じ物を着て、同じ物を食べ、同じ娯楽で遊ぶような世界。でも便利な反面、そこには個々人の多様性やオリジナリティが無い。その流れで、有効な格闘技体系がグローバル化された世界で、九十九がそれに反抗していく話……みたいな解釈で読んでも面白いかもしれない。
今のところ二点くらいこの「有効格闘技体系のグローバル化」の流れに九十九が反逆してる点があって、一つは舞子の存在。
何かと舞子と九十九の関係がクローズアップされてる第弐門ですが、舞子との関係は、陸奥園明流とも格闘技のグローバル化とも関係無い、九十九個人とのもの。だから黒帯の話が描かれたり、今回も舞子だけが知っている一種の九十九との秘匿になっている毅波秀明の存在に舞子が気付いて引きになっている。まあ、九十九の方は忘れてたんだけど(笑)。
もう一つは奥義ですか。何かと宮本翔馬といい、今回みんなすぐに不和戦の再現だと気付く描写と言い、それこそ陸奥園明流の格闘技体系はグローバルに映像で情報共有されている様がしつこく描かれています。これは作中で具体的には描かれなくても、もうみんなYouTubeとかで気軽に見れているんでしょう。この辺りが、第壱門連載当時は謎の格闘技陸奥園明流とか、ブラジルの奥地の謎の格闘技であったグラシエーロ柔術とかが、それだけで価値があった秘匿体系だったのに、現在はやれ優れたものだと、一瞬で情報共有されてグローバルになってしまう時代。これは便利だけど、上述の没オリジナリティの虚しさがあります。
で、そこで考えただけで燃えてくるのが、白虎、青龍といった、「まだ公開されていない奥義」、「例え公開されても常人には複製不可能な奥義」が存在している点でしょうか(今回も九十九はお前に「神威」は打てない、と言う)。これは熱い。確かに、いくら強力という意味で有用性が分かっていても、人は四人に分身したりはしたくないしできないよなー。そういう意味で、まだまだ個人のオリジナリティを飲み込みにかかってるグローバル主義を相手にしても、必殺のオリジナリティは出せるんじゃないか? っていう挑戦だよなー。熱い。
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