村雨さんお久しぶりでした(>WEB拍手)。

 その昔コメント欄を開放していた頃にやりとりしていた方から時たまWEB拍手を頂くことがあります。情報なんかが流動化していて日々見るものがどんどん変わっていきがちな昨今。変わらずに時々でも見ていてくれているというのは大変ありがたいことです。『修羅の門第弐門』面白いですよね!
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 TYPE-MOON『魔法使いの夜』が、再度発売延期告知(公式サイト)。

 シナリオの奈須きのこ氏自身が数年前のインタビューから、娯楽の消費速度が速すぎる件に触れていましたし、最近では原画のこやまひろかず氏も、『TYPE-MOONエース』のインタビューで、今回はCGを単なる消耗品にしたくない、みたいなことを語っておられます。

 総じて、『魔法使いの夜』は娯楽が現れては高スピードで消えていく超消費社会の中で、なんとか消耗品に留まらない作品にできまいか、みたいな理念で動いてる企画なのだと推察しております。そういう意味で、クオリティにこだわりぬいての延期というのはやむを得ないのだろうと思っています。どこかで妥協して世に出して、一瞬で消費されてしまったらこの企画は失敗、という類の企画なのだと思うので。TYPE-MOONはエイプリルフールに本当1日で消費されて終わり的なネタをやってみたり、そもそもFateをはじめ作品がパロディ文化の中で消費されまくってる面を持ちながら、一番大事な仕事に関しては意地でも消耗品にしてたまるかという気概で取り組んでいるのを感じるので、大変応援しております。

 問題はこうやって一線のクリエイターが消耗品にならないような作品を時間や命をかけて制作している間に、世の中の消費文化の方はますます進んでいってしまう点でしょうか。この辺りはもう、消耗品にならないような凄い作品を作ってみせるというクリエイター側と、どんな作品でも貪欲に消費してみせるというユーザー側の、終わりない追いかけっこの様相を呈してきているような気もします。

 ユーザー側の娯楽への消費感覚というのはますます上がってきている印象で、最近では恐ろしいことに30分程度のアニメ作品などでも早送りで見ているという人の話もちょくちょく聞くようになりました。Twitter上なども、長くて1日、早いと1時間くらいでパーっと盛り上がってはすぐさま消えていく娯楽でいっぱいです。現状としてはそういう消費するスピードを強化する方に流れて行っている人が増えていっていて、例えば一昔前みたいに、一冊の書籍と数ヶ月格闘して、作者の息づかいが聞こえるくらいまで読み込む、みたいな経験がある人はどんどん減ってきているような気がしています。場合によりけりですが、一生の中で一度出会えるかどうかの作品と、他の時間を捨ててでも決断してとことん向き合うという経験も、個人的にはまだまだ大切だと思っておりますが。

 このブログで『ガンダムSEED』の感想をコメント欄を開放して書いていた頃、「私は作品は早送りして見ているのでよく分かりませんが、あなたの作品に対する感想は間違っていると思います」みたいなコメントを頂いたことがあって、消費者の消費感覚の加速と自我肥大もここまできたか、などと思ったものですが、その後こういった消費者側の消費感覚はますます高くなっていて、例えば現在の『劇場版ガンダムSEED』に関する一部のユーザー側の根拠なき言論と、福田監督本人のTwitterなどを見比べてみると、ここには消耗品にならないような作品を作らなくてはと考えているクリエイター側の発想と、早く、どんどん消費させろと主張しがちなユーザー側の発想との齟齬が色々と見えてきたりする気がします。

 どんどん消費したいという感覚が必ずしも悪ではなく、例えば消費文化を担っていると言えるニコニコ動画なんかも人を幸せにしている側面はあると思うのですが、娯楽と実社会は分けて考えるという前提に立ちながらも、現実問題中々分けて考えられない側面もある話として、娯楽の消費感覚を、そもまま実社会の消費感覚に持ち込んでしまう人も結構いるような気がします。

 例えば人間関係の消費感覚。自分のパートナーも気に入らなければどんどん代えればよいと他者に対して消費感覚になっている人や、ひどいのになると自分の親や子どもに対しても消費感覚でしか向き合えていないのでは、と感じる事件も頻発するような世の中になってきている気もします。そういうのは拡大していくと地球の消費感覚などにも繋がっていってしまうのかも、とも思ったり。自分の子どもに対して消費感覚になってしまったら、これは次の世代のことはどうでもよい的な発想に繋がりますので、地球なんて、自分が生きているうちに消費しちゃっていいんじゃないかと行き着いてしまうかもしれません。近年のエコブームですが、こういうカント哲学の一部のような、そもそも我々はなんで未来の他者に対しても真摯であるべきなのか、みたいな根本的な部分から掘り下げている話がもうちょっと世の中で共有されていっても良い気がしています。

 こういう娯楽が消費感覚だから人間が消費感覚になってしまうのか、人間が消費感覚になってきたから娯楽が消費感覚になってきたのかは一概には言えませんが、ことそれは虚しいように思える「人間の消費感覚」については、これは『涼宮ハルヒの憂鬱』の1巻(というよりこれが『涼宮ハルヒの憂鬱』という単独の完結作品。続くハルヒシリーズとも独立して読める)で涼宮ハルヒがキョンに告白していた、「幼少時の野球場の体験」のくだりに一端が描かれていると個人的には思っています。

 ちょっと長いですが、歴史に残る名文だと思うので引用してみます。


「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
 何を言い出すんだ。
「あたしはある。忘れもしない」
 線路沿いの県道、そのまた歩道の上で、ハルヒは語り始めた。

「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないかと思った。でね、親父に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。それを見て、あたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって。家に帰って電卓で計算してみたの。日本の人口が一億数千ってのは社会の時間に習っていたから、それを五万で割ってみると、たった二千分の一。あたしはまた驚然とした。あたしなんてあの人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いた時、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えていた。考えていたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」

 まるで弁論大会の出場者みたいにハルヒは一気にまくしたて、喋り終えると喋ったことを後悔するような表情になって天を仰いだ。

    『涼宮ハルヒの憂鬱』より



 ちなみに絵の方でいとうのいぢさんもその後凄まじい量の仕事をしていますが、歴史に残るのはこのシーンのハルヒの挿絵だと思っていたり。

 その後、谷川流氏も『消失』、『陰謀』と凄まじい作品を続けていますが、僕が感じる限り、ハルヒシリーズにおいては、この「人間の消費感覚」は如何にして乗り越えられるのか、という部分に立ち向かっている作品として、一貫した軸があると思っています。『憂鬱』のラストでハルヒはこの人間の消費感覚、上記引用の「憂鬱」から開放されるきっかけを見つけますし、『消失』も、どんなに改変世界の長門もハルヒも魅力的だろうと、キョンにとってのハルヒはこのハルヒで、代わりがいる消耗品なんかじゃない、というようなお話です。

 そういう作品なので、谷川さんも作品自体を消耗品にしようとは思ってないのだろうと推測しています。刊行ペースが遅い点がよく指摘されるハルヒシリーズですが、僕は『消失』や『陰謀』といった作品を読むたびに、まったくそうは思わないのでした。これくらいの消耗されない強度を有した作品を作るなら、絶対時間はかかります。例えば、『消失』や『陰謀』のようなタイムリープを扱ったジュブナイル作品の傑作だと、他に岩本隆雄の『鵺姫真話』などの『星虫』シリーズがありますが、岩本隆雄に関しては、一生のうちで何作書くのか、くらいの刊行ペースです。高速の消費文化とは方向性を逆にする流れとして、こういう創作方針もあるし、それはそれで大変尊いものだ、というのは何かしら創造的な活動に価値を感じる人には共有していて欲しい感覚です。

 ここ数年の世の中の流れとしては、ハルヒシリーズ自体がメディアミックスやパロディを中心に消耗品になっていくような一種の矛盾の中、谷川流氏は4年かけて『涼宮ハルヒの驚愕』上下巻を書いて、それがもうすぐ全世界一斉にリリースされます。これは出来事として心躍るものがあります。

 消耗品にならない作品を創りたいクリエイターと、どんどん消費したいユーザーの追いかけっこはしばらく終わらないような気がしますが、『涼宮ハルヒの驚愕』がクリエイター側からの渾身の一撃であろうことは推測できます。

 以上、『涼宮ハルヒの驚愕』リリース前に、つらつらと思ったことを書いてみました。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

小説『涼宮ハルヒシリーズ』の感想へ
アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の感想へ(映画『消失』の感想含む)