第1話で初めてフリュネという生身の人間(女の子)に触れたことで、ちょっと(ドッペルとかじゃなく)生身の女の子っていいんじゃない、こういう人と人との生の関係っていいんじゃないと思った所で、今回は容赦なく人間と触れ合うことのめんどくささが描かれます。
家族、恋愛、共同体、全部めんどうなもの、という前提。
フラクタルシステムにのっとって超個人主義を満喫しているこの世界での一般の面々にネッサが次々と面倒ごとをしかけていくくだりが爽快です。な、なんで超個人主義でみんな薄い関係を成立させながら各々自己実現モードで万々歳なのに、「人と関わる」なんてリスキーで面倒なことをするんだ、お前は、というような。
そこでクレインがネッサのことを面倒だ、笑顔が不気味だと感じてしまった時点で、クレインはネッサに触れることができなくなる、という演出(というか設定)も上手い。これだけで、ネッサという存在で何を表現しようとしてるのかかなりの程度伝わってきます。
ただ、今回凄かったのはBパート。
めんどくさいネッサと別れて、生身の人間のフリュネもいなくなって、いざ元通りの個人生活に戻ろうとした瞬間、クレインは自分の居場所だった「家」の空虚さに気付いてしまう。
丘の上で途方にくれて、「独りは、嫌だ」っていうクレインの場面が凄い。見て見ぬふりをしていたのか、本当に気付いていなかったのかは分からないけれど、「俺(私)って、孤独だったんだ」と気付いてしまう瞬間を完璧に描いてしまっている。
ただ、これは送り手が作品に込めるだけでは限界がある場面な気も同時にします。何でクレインがネッサと別れた後途方に暮れてしまったのか、クレインに襲ってきたものが何なのか、分かる人には分かるし(この瞬間を経験したことがある人には響くと思う)、分からない人には分からないという受け手の要因も大きい。分からないなら分からないで、それも幸せという気もします。
最後にだけどそんなクレインの所にネッサが走ってやってきてくれて、救いになっていて引き。いや、設定によるとネッサは二次元美少女ということなので、救いになってるのか微妙なんだけど(またこの辺りがこの作品で描きたい核心にも近い気がする)、それでもクレインがネッサのおかげで助かったのは伝わってくる。これはもう、本当にそのまま飛び降りたりしかねないくらい、クレインは危機的な状況だったので。
今度は、またネッサにクレインは触れることができる。全体的に、触れること、人と関わること、家族であること、全部めんどうだけど、何故人はそれを捨てきれず求めるのか、守ろうとするのか、大変大事な部分を第2話にして描いていた気がします。リアル友人知人にも、おびただしい労力、リスク、めんどくささを払っても、それでも必死に親や子どもやパートナーと関わり続けている人がまだまだ沢山いるので、何かを代弁してくれた気がします。これは「何か」ある作品。

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ハリネズミ
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