震災でしばらく感想書いてなかったですが(雑誌がタイムリーに入荷しない状態でした)、ちょうど前回書いた第6話の感想内容への完璧な解答という感じでの決着だったのでタイミングは合った感じです。
劇中で過ぎた時間と、劇外で過ぎた時間が重なりつつ、何となくオリジナリティがなくなってしまった状態、アイデンティティがロストした雰囲気が始終感じられる感じで始まったのが『修羅の門第弐門』でした。九十九は壊れているらしく、格闘技界はグローバル化して、園明流亜種とでも言うような総合格闘技全盛時代。おまけに毅波秀明如きが疑似陸奥になってしまい、いったい、僕らが好きだった「陸奥九十九」のオリジナリティやアイデンティティは何処に行ってしまったんだ、という。
そんなフラストレーションに、連載再開1年弱、劇外時間ではもう10年ぶりとかに、「虎砲」が炸裂して決着。
「人は……自分以外のものにはなれない……。お前は四年半かけて毅波秀明を磨いただけだ。そして、それが答えで、誇っていい正解だ」
毅波に言っているようで、陸奥自身にも、そして10年以上それぞれの時間を過ごしてきた読者にも言っている感じでイイ。
九十九は、結局九十九だった、「陸奥」だったという決着にして新しい始まりを見せる、虎砲炸裂(どんなに園明流が相対化されても、虎砲や四神は誰にも撃てない)。そして、劇外の読者へも、10年で色々変わったかもしれないけど、いや、たぶんあなたのオリジナリティはずっとあったよと言ってくれてるかのよう。相手を認めたからこそ全力で倒す姿勢も、変わらない九十九テイスト。第壱門最終巻あとがきに載ってる、わりと有名な、九十九がレオンを殺したことに関する作者さんの葛藤も、変わらずにいて進んでいるように感じます。あそこで九十九がレオンを抱きしめれば良かったのかといえば、それはやはり何か違う。九十九は北斗を殺したが、今回の第弐門オープニングエピソードでは、その時の北斗の死に顔がキーポイントになっています。そして、九十九はやはり、認めたからこそ、毅波にも全力で虎砲を出しにいった。それを受け取った毅波の顔は? あの時の北斗の顔は? レオンの顔は? というような連想。
やはり面白い。本当、第弐門読んでいる時は中学生の時第壱門を読んでいた時のようなワクワクを思い出すのでした。
修羅の門 第弐門(2) (月刊マガジンコミックス)
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