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 昨晩金曜ロードショーでやっていた『もののけ姫』を視聴したので感想です。
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 劇場公開時、15歳くらいの時に劇場で観た以来の視聴だったんですが、こんなに凄い作品だったのかと打ちのめされる感じでした。奥行きがありすぎて、15歳で全てを受け取るのは無理だった。

 自然と人間文明を対照させたり、調和可能なのかを模索したりといった、ナウシカ〜ラピュタ辺りの問題意識で作られている宮崎駿監督作品の純血かつ直系の作品で、そして到達点ではないかとも思いました。一歩突き抜けてる漫画版ナウシカは少し置いておくとして、人間文明の行きすぎた進歩が生み出したラピュタがバルスによって破壊され、自然生成の世界(大地)へと帰っていくラピュタとは、ラストも似ていると思いました。人間文明側(エボシとかミカド側ね)がシシガミ様(こっちが生と死の自然循環などを司る自然生成側と思われる)を殺そうとして、ラストにアシタカとサンで全力で謝る話だったのか……。結局人間文明側と自然生成側のボーダー的存在であるサンと、あくまで人間であるアシタカは一緒にはならず、少し距離を取りながら共存を目指す……というラストも完璧過ぎて溜息が出ます。

 シシガミ様とか「森」の概念が表象しているであろう自然生成の世界は、生と死が循環している世界なので、特に「死」がそこに普通にあるものとして一貫して描かれているのも、今回ようやく気付きました。映画公開当時話題になった残酷的描写も、ちゃんと主題上意味があるものだったのか……。

 生と死がそのままそこにある自然生成の世界を描きながら、「鉄(これがおそらく作中での「森」の対照概念)」を作るたたら場が出てくる所で、人間が介在する「制作」的世界観が出てくるのはまさにニーチェやハイデガーの系譜の哲学。それは、生と死の循環を、人間がコントロールしようという試みでもある(だから究極的に、人間文明の象徴側のエボシやミカドは、不老不死のシシガミ様の頭を求める)。だけど、人間が介在して生と死の自然の循環をどうこうしようかなんて可能なのか? という(ニーチェもハイデガーも考えたであろう)かなり究極的な問い。映画という映像表現の極みで、全てが圧倒的な迫力で突き刺さってきます。これは凄まじい映画でした。漫画版ナウシカと一緒に、心の大事な所にそっとしまっておこう……。

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 そして、「金曜ロードショー」での『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』放映告知も。8月26日! 公式サイトにも告知が、これは、『Q』の情報きそうですよ。

 やっぱり宮崎アニメとエヴァだけがエッジと公共性(メジャー性といっても良いかも)を両立してるのは、それなりに理由があるのだと思う今日この頃です。

もののけ姫 [DVD]
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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [Blu-ray]
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古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫)
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