凄かった。第1話を100回でも観たくなる(この表現はさすがに大袈裟ですが)アニメというのは久しぶりです。
以下は、妄想予想だいぶ含む、色々感想を含みます。
たぶん輪廻もの(あえてループものという言い方はしない)なのだと予想。
所々に挿入されるリンゴや天使は言わずもがな一神教的な世界観で、世界は一定方向に進んでいく、みたいな世界観がこっち。で、こっちを採用すると、あのペンギン帽子の謎の人は、「運命の果てから来た」みたいなことを言っているので、つまりその一定方向に進んでいく、あらかじめ決まっている世界の果てから来た、というような意味になる(遺伝子の話もこっち。遺伝子に導かれるまま、一定方向に進んでいくの? みたいなお話)。だけど、この一定方向に決まっている運命みたいなのの是非がそもそも主題になってる作品なのは、冒頭&ラストの高倉兄弟のモノローグから感じられます。
で、そこに所々挿入される「回る」モチーフの映像や、陽毬の一旦の死を前後に「繰り返される」食卓の映像、そして陽毬の名前は太陽にしろ毬にしろ、「円」、「球」がモチーフと、輪廻的、循環的、仏教的世界観が同時に入り込んでくる(おそらくだから陽毬だけ予告で「運命が好き」と言っている)。つまり、「世界観」が何なの? というかなりコアな(宗教的なとも言えるかも)辺りを扱っている作品だと思うのです。
そして、そういう「世界って何?」みたいな作品だからこそ、いわゆるゼロ年代サブカルチャー評論で「セカイ系」と言われた文脈を、作品の中に問題意識として組み込んでいる作品だとも思いました。冠葉、晶馬、陽毬の三人は、明らかに三人だけの「セカイ」に閉じこもりの傾向が物語冒頭ではあります。モブが顔がない記号人間になってるのも、作画労力削減とかじゃなくて、おそらく意図的な演出。三人のセカイ以外の他人と、なんだか断絶している状態(そして皮肉なのかもっと深淵な意味があるのか、水族館のペンギン達が、とても個性的に描き分けられている)。この「キミとボクのセカイに閉じこもっていいのか?」というのがゼロ年代「セカイ系」作品の系譜の後半で出て来た問題意識。ラストが冠葉から陽毬へのキスシーンで、兄に至っては妹に近親恋愛みたいな感情も抱いてるっぽいのですよ。まさに、この辺りは「キミとボク」のセカイ。キミと世界との間に、社会や共同体が挟まっていない。
という感じで思いつくままに書いてみましたが、これはヤバ凄い作品だと思いました。はー、毎週生きる楽しみができた……。

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