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 アニメ『フラクタル』最終回までの感想です。
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 ネッサとフリュネのダブルヒロインにかけた、二次元か三次元か問題。身体が汚れた三次元のフリュネが、純潔の精神性を10歳の人格に逃がしていたのが二次元のネッサ、みたいな話だったんだけど、クレインの回答は「どっちも抱きしめる」。三次元女子も、二次元女子も、どっちも好きだ! みたいな話かよ、と思ったんですが、ネタとしては至極真面目な題材でした。二次元というか漫画とかアニメとか、その人の理想像の投射にして、逃避先という側面は確かにある。だけど理想像にはほど遠い生身の自分も、大事にはしてほしい。なので、クレインが最後に繰り返して言っていた「ネッサとフリュネ、三人で」というのは、某マクロスフロンティア(「イツワリノウタヒメ」までしか見てないけど)的な三角関係ゆらゆらとはまた違う、奥行きがある話でした。人格統合劇とでも言えばよいのでしょうか。キルケゴールとかの、理想の自分と現実の自分の乖離が絶望なんだみたいな話を、俺は君の理想像も、汚れた現実の君も、抱きしめたい、みたいな話だった。

 フラクタル世界の神様が、始源のオリジナルフリュネみたいな感じで、普通に現代世界の女子高生だった所で、遠景と近景がクロスした。すわセカイ系! とか思ったんですが、最後の逆『最終兵器彼女』みたいなオチは、何やら批評的だと思いました。あのままフラクタルシステム再起動で「キミとボクのセカイ」になりそうな所を、クレインがシステム再起動後、何があってもフリュネとネッサは連れて帰る、と言い切ってる所は熱い。フリュネ達と「キミとボク」ごっこをやる気はさらさらなく、あくまで地上世界(社会)の中で一緒に生きたい。

 ラストシーン、1年ぶりに目覚めたフリュネは、ネッサと統合されて、当初のあるはずだったあり方として、精神はネッサになっていた。じゃあ、汚れた身体だと自分をさげすんでいた身体(三次元)のフリュネの方に宿っていた人格はどうなってしまったんだ……と一回振っておいて、ラストのラストに身体の記憶(フリュネの人格)も残留しているらしいと救いを持たせて締めも綺麗。理想や二次元の自分に比べて、現実の自分は身体も汚れているし、めんどうくさいし、利便性もさらさらないかもしれないけれど、そっちを抱きしめてくれる人がいても、いいだろう、というようなエンディングだと思いました。ドッペルやモニター越しのコミュニケーション、超個人主義を背景に描いてきたので、ただめんどうくさい身体がある他人に、直に触れて抱きしめる、というこのエンディングは、良いと思いました。

フラクタル第1巻Blu-ray【数量限定生産版】「ねんどろいどぷち ネッサ」付
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ハリネズミ
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