久々になってしまいましたが、僕の講座『表現者のための英語再学習』のメールを昨日送っておりますので、講座受講者の方はご確認頂けたらと思います。

 今回は「まずは軽く、二つのthat」というタイトルのお話でした。thatが使えるようになってくると、かなり長めの文もどんどん作れるようになっていきます。

 去年の募集当初は英語思考に基づく感覚的な表現ができるようになる点を大事にしていた講座なのですが、少しずつその哲学も変わってきています。感覚だけなら、今回のthatの話とかはなくてもまあいける。
 ただ、ここ一年くらいで特に気になるのは、震災以降色々と国内問題があることもあり、海外対応スキルを磨いて、英語やって、グローバルエリートになって自衛するのがよい、みたいな話がそれなりに広まり、本気でそう思ってる人もそれなりにいること。企業や大学でも、業務は全部英語、授業は全部英語、とするのが最先端、みたいな雰囲気すらある感じです。

 能力として国際競争に耐えうる力を持つのは凄いですし、英語もやった方はイイと思ってネットで地域でと僕も教えている訳ですが、ただ例えば一日の間思考するのに使う言語が二十四時間全て英語感覚的な英語、となってしまうと、それはちょっと強く言うともう精神文化的に日本人ではありません。一日の長い部分を占める仕事や授業の時間もずっと英語がよい、という発想も、その先に繋がっていくのは「グローバル」という心地よく感じる人には心地よく感じるらしいお題目の影に隠れた、地域多様性(日本語や日本文化もその中の一つ)を排して均質化されていく世界です。

 僕は普遍の存在は想定するけれど、表面部の変項部分は多様であってよい、という考えなので、変項部分的多様性まで自ら捨ててグローバル礼賛とする考えには懐疑的です。普遍と言えるほどのものも、英語思考・感覚やその背景にある文化、パラダイムにも感じていません。

 とは言え、すごい勢いで日本より世界、日本語より英語、みたいな力が加わってきてるのも確かです。僕のような考えの人には、世界対応も強化しながら、日本語や日本文化も大事にしていきたいな、という難しいかじ取りが要求されていることになります。これは、今回は文化の話だけですが、経済の話も原則僕はこの方針です。

 そんな中で現在考えてるのは、「日本語的英語」ということです。英語思考、英語感覚を知ることは重要です。それは、相手の言語感覚や、(ここは慎重に言う必要がありますが)文化背景を知るという「対話」の試みなので、大事にしていきたい。だけど、その中で、あくまで日本語的なものも、残した言葉を使っていく、ということです。

 最近試みてるのは、日本語の特徴の一つとしてあげられる「敬語」の感覚を上手に、そしてさりげなく英語にも混ぜていく、ということなどです。こういうことをすれば、おそらく英語母語話者からすれば、何か変な英語、ということになると思います。だけど、そこでその感覚を説明できるように、日本語と英語を架け橋的に使いこなしていきたい。これが、(受験などでも)敬語に注目される1000年ほど前の『源氏物語』からある、日本語の感覚なんだ、と。

 そういう感じで、少しずつ一年近く前の募集時とはコンセプトも変わってきつつあるのですが、引き続き募集中ですので、もう一度英語と関わってみようかなという方は下記よりお申込み下さい。今からのお申込みでも、今まで配布した分はPDFですぐ受け取れるようになっております。↓

講座『表現者のための英語再学習』