東浩紀さんの深夜の数回のツイートが興味深かったので少し引用。


(ここから引用。最初のはオノサトルさんという方のツイートを東さんがRTしたもの)

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@wonosatoru

ほぼ毎年、単位を既に取得した学生が「単位とか関係なく!ぜひ受けたいんで!」とアツく授業に登録してくるが、大概はしばらくすると出てこなくなる。「無償で仕事する」というクリエイターの話を聞くと、なんとなくそれを思い出す。なんとなく。

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@hazuma

ゲンロンにも、定期的にボランティアでいいから手伝いたいというひとがやってくるが、そういうひとはすぐ来なくなるのが自明なので手伝ってもらったことないな。>公式RT

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@hazuma

問題は、有償か無償かということではなくて、強制力なんだよね。「ちょっとこれめんどくさいな〜」と思ったときすぐに逃げられる状況だと、ひとは結局すぐ止めちゃうんだよね。たとえばぼくのダイエットがいい例だ。

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@hazuma

ダイエット実現のためにはそれを仕事にするしかない。

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@hazuma

とかいう冗談はともかく、そういうわけでぼくは、当世流行の「おたがいに傷つかない感じで、でも付かず離れずに自由意志で助け合うリベラルなノマド的あるいはシェアハウス的同世代コミュニティ」なるものもまったく信じないのであった。強制力がない人間関係は、結局ひとも成長させない。

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@hazuma

このあいだ細野豪志さんとの対談で最後にちらりといいかけたのも、つまり地縁とか血縁は、別にそれ自体がいいということではなく、そういう強制力(付き合いたくないけど付き合わないといかん)を与えるのでやっぱ人間にとって必要なのではないか、ということでした。

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(/引用ここまで)

 以下の文章には、『ひぐらしのなく頃に(解)』と『Kanon』『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』と『Fate/Stay night』『魔法使いの夜』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のネタバレが入っていますので、ご注意ください。

 現実の話とフィクションの話を結びつけるのも何な感じですが、そこは、やっぱりある程度反映し合う相互関係もあるんじゃないかということで。

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 ゼロ年代の、ループする世界から、最後に一回性の自分の世界を選択する、という「物語」の話は、前々から時々書いたりしておりました。『ひぐらしのなく頃に(解)』だったら、梨花ちゃんは、世界を繰り返していたうちは、上の引用箇所の言葉で言えば、どこか「すぐに逃げられる状況」だった。傷ついたり、上手くいかなかったりしたら、世界を繰り返せばいいや。そういうゆるい気持ちから、失敗したらこれで最後という強制力を伴った「祭囃し編」の世界にコミットするまでを描く、というのが、一つは『ひぐらしのなく頃に(解)』という物語。

 その世界は選択できるからテキトーでいいや、から、強制力を伴う一回性の世界の選択へ、までの流れが、ギャルゲー的ハーレム構造の作品における、ヒロインはたくさんいるんだからテキトーでいいや、から、覚悟をもって一人の人を選択する、という流れに重なっている、という話を書いたのが、昔のこちらの文章でした。↓


ハーレムギャルゲーの終焉は『ひぐらし』でも描かれている/ひぐらしのなく頃に解/ネタバレ感想ブログ


 泉信行さんのこちらの記事と合わせて、ある程度ストック性のある文章になっていたらいいな、などと思っております。↓


『ときメモ4』と『生徒会の七光』がゼロ年代最後尾のリリースであることの意味/ピアノ・ファイヤ


 ギャルゲーの世界でも、世間への普及度(シンプルには売れた数など)からするとKEY作品などの影響力は大きいと考えますが、KEY作品も、『Kanon』『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』と進むにつれて、沢山のヒロインを自由に選べる状態から、やがて真ルートの存在へ、そして最終的には、『リトルバスターズ!』は繰り返される虚構のループから、ただ一つの現実へ帰還する物語になっていたりします。

 もう一つのゼロ年代ムーブメントの雄、TYPE-MOONでも、『Fate/stay night』は分岐にマルチエンディングなのに対して(その構造自体に意味があり、批評性を加えている作品だとも思いますが)、2012年発表の『魔法使いの夜』は、分岐なしの一本の物語です。

 この流れから僕が感じるのは、「不自由さは上がっているのに、物語度としては進んでる感じがする」ということです。

 価値観が多様化した今の時代、一本道の大きい物語を押し付けられるのなんて嫌で、自分好みに加工した物語を、キャラクターを、自分好みに味わいたい。ソーシャルゲームの隆盛などがそちらの方向性のような気がします。ヒロインが一人しか選べないなんて、「不自由」だから! という心情。

 TYPE-MOONの『魔法使いの夜』こそが、表面的には東さんが言う所の「当世流行の「おたがいに傷つかない感じで、でも付かず離れずに自由意志で助け合うリベラルなノマド的あるいはシェアハウス的同世代コミュニティ」なるもの」っぽい雑居もの作品なんですが(影響を受けてるのは何度か書いてる通り、おそらく氷室冴子の『雑居時代』)、これはその点に批評性も加わってる作品なんですね。

 核家族化、リベラルな同世代コミュニティいいよね的価値観なんて辺りが、かなりの程度経済発展期とリンクしてると思うのですが、制作サイドも言及してる通り、『魔法使いの夜』の舞台の80年代末(当初は明確に1987年に設定するつもりだったというインタビューもあります)というのは、経済発展の黄昏時、バブル崩壊あたりなんですね。そんな、自由意志とか、リベラルな恋愛とか、上京して成功とか、そういうのが無謬に感じられた頃が終わっていく、黄昏時。だから『魔法使いの夜』は雑居ものという広報の作品ではあるのだけれど、最後は「家路」という曲が流れる中、青子と草十郎が青子の実家を訪れる話なんです。そんな時代背景の中、どうしても切れない「不自由」な家、家族、血縁というものと向き合うために。雪道を二人で「家路」へと向かう情趣は凄いので、お勧めの作品ですよ。

 ゼロ年代が終わり、では10年代の物語ってどんなだろうというのは、時々考えていることですが、このループする世界から真ルートへにしろ、複数のヒロインに耽溺していられるハーレム構造から真ヒロインへにしろ、自由意志のリベラル同世代コミュニティいいよね感から不自由で強制力もある地縁、血縁とも向き合うへにしろ、何かしらこのある種の「不自由さとの再契約」というのは、一つの視点のような気がしています。

 そういう意味では、ゼロ年代はサブカル批評とかやっておられた東浩紀さんが、その後色々現実社会での活動をやられた上で、アップデートされたフィルターで語られるいくつかの作品論は面白いなと思っていたりで(ご本人も仰ってるように、もうコンテンツ批評などを中心に行う気はないようですが)。

 Twitterだけ読んでいると、東さんは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』はあんまり評価しておられない感じなのですが、この流れで考えてみると、あれも不自由でやっかいな、シンジくんとゲンドウとの血縁の話という要素も入ってるよな、とか。

 夢があるのか無いのか微妙ですが、個人的には、作り手もユーザーも、子育てに介護にと、ある種やっかいな他者と強制力付きで向き合いながら、物語を作り、物語を読む、という段階に入りつつあるのかもな、とは最近感じていたことだったのでした。

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