色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 [単行本]

 本日発売の村上春樹の新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の感想です。
 ネタバレで書いてますので、まだ読んでない方はご注意ください。
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 一線の創作作品は時代性を反映するの法則と、読んでる僕のフィルターにプリキュアフィルターがかかってるのと両方あると思いますが、扱ってるテーマが最近のプリキュアっぽいなと思いました。

 過去の調和した共同体(今はもう失われている)とか、孤独からの再生とか、児童時間の卒業とか、一人一人が主人公とか、ここだけ列挙するとめっちゃここ数年のプリキュアシリーズのテーマです。

 学生時代、仲良し五人組で作っていた「乱れなく調和する共同体」が破たんし、時は流れ、36歳の大人になった主人公が、もう一度四人に会いに行き、その意味合いを再生する、という大まかなストーリーライン。この「良かったあの頃」感や、理想論、綺麗事としての各々が各々の役割を全うして全部上手くいく「乱れなく調和する共同体」は、現実を生きる我々も抱きがち。

 なのだけど、それは子供時代、児童時代にだけ見られる夢のようなもので、僕たちはどうしようもなく大人になっていく。壊れた現実で、孤独な現実で生きていく。

 もう戻らない過去の「乱れなく調和する共同体」の喪失感が意識される中、36歳の大人の現実を傷つきながら生きているアカとアオとの再会シーンはしみじみ。そして、性的なものを忌避していたというあたりに象徴的に、一番児童時間的なポジションに感じられるユズは死んでしまっているというのも切ない。エリはユズの重みに耐えきれなくなって、逃走的に(と劇中でエリ自身が自己分析的に語る)フィンランドまでいって、陶芸という自分の道を今は求道している。自分の道を行くということは、どこか昔の共同体が壊れることと、同義。大人になるということは、バラバラになるということで、いつまでも児童時間の夢の共同体の中にはいられない。

 全体的にユズが児童時間の女性の象徴で(劇中で夢の中、過去話にしか出てこない)、傷つきながらもタフに何とか今の現実を生きてる沙羅とエリが大人時間を生きる女性(年をとり、沙羅には性的な話が出てくるし、エリは既に二児の母親)の象徴だと思いました。つくるは、心に傷を負ったまま蓋をした児童時間にもう一度向き合って、本当の大人へと歩を進めていくポジション。


 「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ。」


 なのだけど、児童時間の幼かった「乱れなく調和する共同体」を全否定して終わる訳ではなくて、あの頃にも、きっと何らかの意味はあったという、ある種優しい結び方。その結びが、儚い児童時間と共に消えてしまった今はもういないユズだけど、どこかに生きているという点と、つくるが作った駅がつくるが死んだあとも残ってるという話、エリが作った陶芸もそういう類のものであるという話、死んでしまった父親が「作」という名前を残してくれているという話、その名前を、つくるやエリは作品(駅や陶芸)に刻み付けているという話と重なって、収斂していく、この辺りは本当見事。

 優しいと言えば、最後が新宿駅の喧騒の長い情景描写で、この手の喪失や傷や孤独の物語は本作の主人公つくる特有のものという訳じゃなくて、この駅を行き交う人々一人一人に、当人が主人公の物語がある、という感じにまとめているのも優しい。児童時間的な「乱れなく調和する共同体」をどこかで否定しながら、だけどどこかで、駅を作るつくるがいて、フィンランドで陶芸するエリがいて、フィンランドでエリの家へ案内してくれた通りすがりのお爺さんがいて、それぞれの職を全うする人がいて、色々な色の人が傷つきながらも生きていて、それぞれはそれぞれに必要なはずだという希望が感じられる点で、どこかでそれを肯定もしているような、深みが底の方に沈殿している作品。

 壊れた過去を前提にして、沙羅が未来の象徴かと思いましたが、結局沙羅がつくるを受け入れてくれるのかどうかは劇中では明かされない所で終わるのも良い。現実も、未来は明るいと断言してしまえば、何だか胡散臭くなってしまう世情です。安易な断言(村上春樹の文脈的に言えば、壁と卵だったら、壁側的な発想)を避ける、村上春樹っぽい詩情だなと思いました。例によって、感想や評論としてのテキスト(今僕が書いてるような)の必要性を感じない、これぞ小説という作品でした。単純な言葉に還元できない豊かだったり深淵だったり美しいものを、「小説」という形式に凝縮してると思える、本物の作家の小説だと相変わらず思ったのでした。