アニメ『境界の彼方(公式サイト)』、第12話(最終回)の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 ラストシーン。これは最速放映時の僕が観ていたTwitterのタイムラインでは「分からなかった」あるいは「投げっぱなしでは」というテキストも見かけたのですが、うちのブログ的には『コードギアス反逆のルルーシュ』の裏エンディング、TV版『仮面ライダーディケイド』のラストシーンのごとく、作中に散りばめられている断片から情報を組み立てると、分かる人には分かるように描いていた箇所かと思います。もともと、この『境界の彼方』、意図して様々な点でそういう描き方をする作品でしたしね。

 というわけで、最初に何故ラストシーンで栗山さんが戻って来られたのかという部分を書いてしまうのだけど、第11話の、作中での「境界の彼方」がどういう存在かについて泉が語っているシーンが一つ目に大事と考えます。引用すると、


 「『境界の彼方』は人の怨嗟が飽和状態になると数千年に一度この現世(うつしよ)に現れると言われている妖夢。人類がその怨嗟の中で存在する目的を見失った時、世界のどこかで発生して人の世を初期化するように仕組まれた自然の摂理だとも言われているわ」(名瀬泉)


 現世(うつしよ)と言っているあたり、前の感想から書いておりましたが、『境界の彼方』はかなりの程度ブディズム(仏教)的世界観で作られている作品です。前の感想で何度も言及してきた「食」のテーマ(生命は何か他の生命を奪いながらじゃないと生きられない)も、仏教の思想方面の考え方です。で、「現世(うつしよ)」というのは、専門の人からは怒られるくらいざっくりと説明してみると、「この世界は虚構的に儚いものだ」みたいなニュアンスがある言葉です。

 ここで、仏教繋がりで二つ目、藤真弥勒の目的についても作中で描かれる断片から組み立てていくと、ラストシーンの意味に繋がります。

 藤真弥勒は桜に使わせていた「鎌」を使って境界の彼方に働きかける。泉はそれを阻止する。という対立構図なわけですが、つまりは弥勒は上の引用部分で言うと「人の世を初期化しちゃおう派」、泉は「この苦しい現世(うつしよ)で何とか生きていこう派」なんですね。最終話では、もうちょっと個人的な弥勒の泉への執着も描かれるけれど、そこは今回は一旦横に置いておきます(ラストシーンの解釈とは少しズレる部分なので)。

 で、弥勒の名前の「弥勒」はどう考えてもブディズム(仏教)の弥勒菩薩からとっていると思われる訳で、この弥勒菩薩というのも、専門の人に怒られるくらいざっくり説明してしまうと、世界を浄化して新しい世界にする時に現れるような存在です。それゆえに(これも気を使いつつざっくりとですが)一種の終末論と結びつきやすいのが弥勒菩薩です。だいたい、作中での藤真弥勒のポジションもそんな感じですよね。

 で、そんな現世(うつしよ)を初期化、リセットしてしまうような能力、弥勒菩薩的に終末から新しい世界を作っちゃうかのような能力が作中の「境界の彼方」にはある、というのが描かれているわけですが、これはもうちょっと言ってしまうと、「虚構を現実化する能力」なんだろうと。『涼宮ハルヒの消失』との関係については『消失』の方のネタバレを考慮して後半にまとめて書きますが、この辺りの話からピンとくる人にはピンと来てると思います。

 もうちょっと作中の描写での裏付けもあって、そういう世界初期化的、新しい世界を創る的、虚構を実現化して世界を創る的能力があるであろう「境界の彼方」を、栗山さんが自分に取り込んだ状態が描かれる第11話、やっぱり、夏の世界と冬の世界という、二つの虚構世界が現実化しそうになっていますよね。あれは、「境界の彼方」の能力ゆえ、と考えると説明がつくのです。さらには冬の世界の方には、秋人母いわく栗山さんの強い思念が作り出した、傀儡の虚構秋人まで存在している。あの虚構秋人は、栗山さんの想い+「境界の彼方」の虚構実現化能力で生み出されてると考えるとしっくりくるのです。

 その栗山さんが「境界の彼方」の力で生み出している虚構世界(雪が降ってる世界の方)に、現実秋人が走って会いに行く第11話は熱かった、というのは前回の感想(『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想))で書いた通りですが、後述の『涼宮ハルヒの消失』を絡めた箇所でまとめて書きますが、この虚構世界と現実世界、妖夢(虚構的存在)と人間(現実世界に張り付いて生きている存在)の「境界」のボーダー、その曖昧さ、みたいなのがこの作品の主題でもあるって感じですね。

 そう考えると、最終回で、上述のような「虚構を実現化する能力」的な能力を持っているであろう劇中の「境界の彼方」は、栗山さんから秋人に戻っているのですね。そして、栗山さんにその能力が移っていた時は栗山さんの強い思念が虚構秋人を作っていた……という情報などから組み立てていくと、つまりラストシーンの栗山さんは、「境界の彼方」の能力を使って秋人が実現化した半虚構存在みたいなものだと思うのですね。このラストシーンで、上述のような様々な「境界」を扱ってきたこの作品が最後の絵として閉じるようになっている。それこそブディズム(仏教)的と言ってもよさそうな、そういう曖昧な領域もありだ、みたいな落としどころですよね。弥勒と泉の思想の対立的には、虚構的な想像力で世界を一新しようとしていたと思われる弥勒の思想も、苦しくても今の現実世界で生きている泉の思想も、半分づつ、みたいな落としどころになっている。弥勒と泉自身も、実は半分は妖夢的存在、というのが明らかになるのとリンクしてるのも上手いです。そういう個人の実存として妖夢なのか人間なのかというミクロなパートと、世界全体が虚構的妖夢的か、現実的人間的か、みたいなマクロな話が、一致して最終回では描かれてますよね。で、ラストシーンの半虚構存在的に生まれ直した(と言ってしまうけど)栗山さんを祝福的に描くことで、どういう存在であれ誕生を祝福したいという絵で最後の絵をまとめている作品という。自分が生まれてきたことを肯定できなかった栗山さんというキャラクターのアンサーでもあるし、自身の誕生が謎のままで自身が生まれたことに自信がない秋人というキャラクターのアンサーでもあるし、そんな秋人が栗山さんの誕生日(生まれてきたことを祝福する日)のために眼鏡を選んでいたシーンの伏線回収でもある。

 また、そういう不思議な存在というか、マイノリティというか、虚構(創作物)でも現実でも、生まれていいんじゃない、みたいな話ですよね。前の感想で秋人の「眼鏡について語る薀蓄」のシーンは、メタ的に物語論になってるんだ、ということを書きましたが、おおむね「色んな眼鏡があって良い」ということを言ってるんです。で、エンディングでも印象的に使われているし、各話のタイトルになっているのも「様々な色」でしょ。しかもけっこうマイナーな色ばっかりがサブタイトルに使われている。さらに言えば、そういう様々な境界領域の色こそが、虚構物、創作物を創る源です。そういう、色の存在を、誕生を、祝福できる世界であれ、みたいな感じですよね。だから本当、やりすぎだろとも思うのですが、作中で「眼鏡」にはそういう象徴的な意味もあるので、ラストシーンは秋人から栗山さん(半虚構存在的に生まれ直している)が眼鏡を受け取って装着、で、もうこれしかないラストの絵だよな、と。

 と、以上、ラストシーンの僕なりの(それなりに確信と納得してる)解釈です。


 以下は、前回の記事で書いた通り、この『境界の彼方』という作品は非常に『涼宮ハルヒの消失』という作品を本歌、オマージュ元として色々「その次の物語」を表現してると思うので、その点について少々。作中の美月のポジションの解釈は『消失』を絡めないと語りづらいので、是非『消失』を観た上で読んでほしいのですけどね。前回のこちらの記事↓


『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)


 を前もって読んで頂けていたら嬉しいです。

 で、上記リンクで書いた通り、『境界の彼方』という作品は『涼宮ハルヒの消失』でキョンに選ばれなかった「消失」版長門有希(眼鏡をかけてる)を救済する、というメタ物語論的な意味がある作品だと思うのですよ。僕なりに確信しつつ。

 上述してきた劇中の「境界の彼方」の虚構(想像)を実現化する能力というのも、これはもう『消失』的に言えば「時空改変」能力ということですよね。

 で、時空改変能力を元に、『涼宮ハルヒの消失』では、「消失」の世界の長門やハルヒか、現実世界の長門やハルヒか、「どちらかしか選べない」というのが描かれて、キョンは現実ハルヒのいる世界の方を選んでしまうので、「消失」長門は選ばれずに消えてしまった……というのが切なさとして描かれるわけです。

 その同じ京都アニメーション作品の物語上の文脈の上で、「どちらかしか選べない」という思想(『境界の彼方』劇中では泉がだいぶこの思想で苦悩している)をブレイクして、「曖昧に両方」という結論で、if「消失」長門である栗山さん(共通項は何と言っても眼鏡)を、救ってみせる物語を描いた作品だった、ということだと思うのですね、『境界の彼方』は。

 多様な色の一つとして誕生を祝福し、半虚構存在的栗山さん(if「消失」長門有希)もいていいんだ、誕生して良かったんだ、というのを描いた上で、『長門有希ちゃんの消失』のアニメ化発表とかも、本当よく考えてマーケティングしてるって感じですよね(笑)。

 ただ、『境界の彼方』という作品に奥行があるのは、『涼宮ハルヒの消失』を乗り越えてめでたしめでたしでした、という側面だけで終わるのではなくて、やっぱり引き続き「選ばれなかった存在」についても、読み込むと咀嚼できるように作ってる点ですね。

 「文芸部員の一人目」「正ヒロインの影で主人公が好き」「ときどき眼鏡」ということで、はい、美月の存在です。彼女も同時に、『涼宮ハルヒの消失』における「消失」版長門有希のifなんです。

 こちらのブログのこちらの記事に詳しい、というか『境界の彼方』の伏線まとめ記事としては現時点で最高峰だと思うので読んでおいてほしいのですが、↓


初見では絶対にワケが分からないであろう『境界の彼方』の伏線をまとめました/やまなしなひび−Diary SIDE−


 物語の遠景に、「やっぱり選ばれなかったif『消失』長門有希としての名瀬美月の物語」も見えるように作り込まれているのです。


 「頑張らないと……卒業式の日に私から告白されるという夢が叶わないわよ?」(名瀬美月@第1話)


 このシーンが、でもこの未来(美月と秋人が「卒業式に告白」という典型的なハッピーエンドで結ばれる)は選ばれない(秋人は栗山さんを選んじゃうので)という切ない伏線なんですね。

 同じくこちらの記事も是非参照してほしいですが、↓


生きるためには食べなくてはならない!『境界の彼方』の食事シーンを読み解く/やまなしなひび−Diary SIDE−


 『境界の彼方』は栗山さんと美月のダブルヒロイン構造で、「食」のテーマに関して、生きるために食べる栗山さんと、嗜好として食べる美月、という対比がずっとあった作品です。その末で、選ばれたのは栗山さんというラストなんですね。つまり、「消失」長門有希のifとしてダブルヒロインがいて、「消失」長門ハッピーエンドが栗山さんで、「消失」長門バッドエンドが(恋愛に関しては)美月だって構造になってるんですね。その両ルートの分岐が何だったのか、というのは考えるのが一興なので、ここでは触れないでおきたいと思います。

 ◇◇◇

 そんな感じで、「分かりづらい」という感想には反論のしようもない作品と思いますが、このこだわりの工芸品のごとく細部まで練り込まれて作られている『境界の彼方』という作品に、僕としては大満足。玄人好みというか、奇書的というか。心に残る作品となりました。



境界の彼方 (7) [Blu-ray]
種田梨沙
ポニーキャニオン
2014-07-02


→前回:『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)
→次回:『境界の彼方』第0話「東雲」の感想へ
→次回:『劇場版境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇』の感想へ
『境界の彼方』感想の目次へ

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』感想目次へ
原作小説『涼宮ハルヒ』シリーズ感想目次へ