記事中はネタバレ注意です。
アイドルアニメとして可愛い女の子が歌って踊ってるだけで楽しいんですが、「外部の要因で抑圧してしまっている、自分の本当にやりたいことに目覚める」というストーリーが縦軸にけっこうしっかりとあって、そこも良かったです。
第4話がとても重要だと思っていて、あれは分かりやすく、外部要因、というか一般基準では低スペックなので「アイドルやりたい!」という自身の本当の気持ちを抑圧していた花陽ちゃんがアイドルやります! って言うまでのお話。
なのだけど、同時に一見第4話では花陽を応援する立場にいる凛と真姫もそれぞれ「女の子らしい服など着たいのに、ボーイッシュ的な人物像を外部から期待されてしまっている」、真姫は「音楽をやりたいのに、医学部に行って医者になるという未来像を外部から期待されてしまっている」というように自身の本質が抑圧されてる問題を抱えていて、花陽を応援するイベントを通して、彼女ら二人も自分自身の本心、自分の本当にやりたいことに目覚める、それを直覚する、という流れになっている。凛と真姫は花陽に自己投影してる形だと思うのですね。だから、本心を抑圧してる花陽を助ける、というのは、凛と真姫にとっては抑圧されてる自分自身の本心を救いにいく行為にもなってる。わりとこういう機微を描いていたのは好感。
このストーリーラインが5話以降も顕著で、それぞれ山場は絵里、穂乃果、ことりちゃん。ニコ先輩にも「本当はμ’sでアイドルやりたいのに素直になれない」というストーリーはあったけれど、ニコ先輩は最終回の穂乃果落ち込みパートでもブレずにアイドル活動続けてるあたり、どちらかというと「アイドルが好きという自分の本心がブレなかった人」ポジションな気がする。
絵里の場合は生徒会長としてふるまわなきゃとか、そういう建前もあるんだけれど、自分の本心にそって動けない一番の理由は、クラシックバレエ時代に挫折してるんですね。穂乃果らに比べればもの凄いスペックは持っていて実際上のレベルまでいったんだけれど、それでも競争世界で勝ち抜けるほどの人間にはなれなかった。それが要因で素直に踊ったり歌ったり好きだから私もアイドルやる、とは言えない。なもので、これは彼女を抑圧してる外部要因はもう「競争社会」とか、そういうものだよな。「勝てなかった」という挫折感。印象的にアイドルランキングが上下する様が作中によく出てくるのだけれど、あれも競争世界の象徴だと思っていて、勝てる一部のアイドルたちと勝てないアイドル達を選り分けていくのが描かれている。学校が廃校になるという本作の前提も、教育業界激変の世相の中、例えばグローバル教育サービスが栄えるあおりをくらって、音ノ木坂学院は淘汰されようとしていたのかもしれない。勝てなかった側は、自分の本心を押し殺して勝った側を見上げて無難に暮らすしかないんだよ、そんな時代さポイズン。というのに、違うだろと反逆するストーリーの作品なんですよ。
なので、希のサポートがあり、穂乃果から手を差し伸べられるイベントがあり(あのシーンいいですよね)で、絵里も自分の本当の気持ちに覚醒。この箇所で出てくる、
「特に理由なんか必要ない。やりたいからやってみる」「本当にやりたいことって、そんな感じで始まるんやない?」(東條希/第8話)
は名言。
大多数が敗れ去って行く「競争社会」に反逆、とまではいかずとも、そんな中で自分を保ちながら生きていく最初の一歩は、「ただやりたいことをやってみる」から始まる。いきなり他作品の例を出してみると、『ガンダムビルドファイターズ』のテーマに近い(参考:気を抜くと効率性を求められがちな世界にガンプラを作って反逆する。)。『ガンダムビルドファイターズ』で「ガンプラを作る」行為と、『ラブライブ!』で「歌って踊る」行為は、意味合いとして重なっていると感じます。勝てなかった側の人間だとしても、自分の心の奥にある一番やりたいことを、すっとやってみる、という行為、そこに没頭してる時間。そういうものには、自分を救う力がある。
最終回への流れでもう一つ描かれるのは穂乃果で、彼女にアイドルをさせていた外部要因、「学校が廃校になる」が最終回を前にして問題解決してしまって、穂乃果に積極的にアイドルをやる理由がなくなってしまうんですね。動機付けになっていた「ラブライブ!出場」も、周りに迷惑をかけた結果辞退という流れになってしまって、結局なくなってしまった。モニターの中には、「勝ち抜ける」側のアイドルたち。自分はそっち側にもいけないだろうから、続ける意味もない、と。
しょぼんと、「勝てなかった」側として、友達とゲーセンでダラダラと過ごしていた。のだけど、そこでダンスゲームに遭遇。踊ってみたら、意外に踊れる。フツフツと何かが湧き起ってくる……という流れは良かったですよ。「学校を存続させるため」とか「ラブライブ!で勝ち抜くため」というあらゆる外部要因を外してみても、やっぱり自分の内側の本心に残っていた気持ちは、歌ったり踊ったり、実は本当に好きだったんだ、という気持ち。本当に、μ’sのメンバーとアイドルやりたかったんだ、という気持ち。それだけは確かだ、ということ。
最後の最後はことりちゃんで、外部要因から「良い子」を演じてる側面がある登場人物だと思うのですね。それを、穂乃果効果で、けっこうゲリラな感じの本当の魂の志向を充実させていた感じの人。
最終回の展開には事前に仕込みはあって、第9話で、秋葉原という街は抑圧していた自分の本当の部分を出しても受け入れてくれる街、みたいなことことりちゃん言ってるんですね。本当の本心はそんなに上品じゃなくて、メイドでアイドルな、わりとサブカルというかゲリラな感じの子なのです。
なのだけど、穂乃果が少し暴走気味にライブ目指して邁進する時期や倒れて養生中の次期に決断が重なってしまって、「良い子」として留学の道を一旦決めてしまう(比較の話になるけど、「将来のために留学します」と「下層のスクールアイドルやります」では、外部要因、一般的な評価からすると前者を要求されがち)。なのだけど、最終回の「己の本心を直覚した穂乃果」(「殺意の波動に目覚めたリュウ」的な感じで)によって、無茶ぶりを慣行されて、アイドル活動という、下層にみられがちな、ゲリラでサブカル的で、一般的には評価もされないし「勝ち抜けない」側かもしれない的な。でも、己の魂の本心で「好き」な所に連れてこられる。そういうラスト。
競争世界で勝ち抜きますを描いていたわけではなく、色々な要因で抑圧されがちな自分自身の本当に好きなことに目覚める、それに従って進み始める、という所までを描いた『ラブライブ!1期』という作品だと思うので、ここですごくまとまっていると思うのですね。
時世的にその他の作品とか人も出すと、前述した『ガンダムビルドファイターズ』や、上坂すみれさんの『革命的ブロードウェイ主義者同盟』に、テーマ・コンセプトが近い。オープニングの歌詞に象徴的に、それぞれが好きなことで頑張れるなら……という箇所があるけれど、勝者側からの搾取構造を前提とした、そのままだと競争に駆り立てられて大部分の人々が消耗品になって自分自身を抑圧していってしまう、ここ100年あまりの世の仕組み(学術的な用語はあえて出さないでおくけれど)に対して、そこから次のフェーズに行きたい、という衝動が原動力になっている感じ。いきなり世界は変えられないけれど、まずはガンプラを作ったり、やりたくなった瞬間にやりたいことやってみたり、アイドルやってみたり。そんな所から始まるのかもしれない。
堪能した作品でした。もうすぐ始まる2期も楽しみ。
→前回:アニメ『ラブライブ!』第2話〜第4話の感想へ
→次回:アニメ『ラブライブ!2期』第1話「もう一度ラブライブ!」の感想へ
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