ネタバレ注意です。
「誰かが助かる一方で誰かが犠牲になる」世界のシステム描写、光実が貴虎を犠牲にして自分が生きる(自分のやり方を通す)、ということをやっている一方で、紘汰と舞は騙されていたと知っても光実をまだ切り捨てたく(犠牲にしたく)ないと相変わらず考え方の対比になっていると思います。
で、舞がカチドキアームズ渡してくれた時のサガラと同じようなことを言っていて、犠牲を出すと割り切る世界観の方が「弱い」ということを言う。戒斗もこの話数でそれを認めていて、以前の淘汰する力を身に着けるのが強さか、そうやって迫ってくる力に対して折り合いをつけて生き続けることが強さかの戒斗と舞の「強さ」に関する問答、戒斗が折れた感じなのかな。
その流れからこれ、作中の一つの解法、「犠牲になる側がしぶとく生きる」もなのかもと思い始めた。戒斗さんも表面的に力のみを求めてると言いながら、何度負けても立ち上がってくる人として描かれてると思うし、貴虎兄さんも犠牲になる役回りを引き受けても、何度もしつこく立ち上がってくるし。崖落ち、水落ち、何のそのですよ。スーツはボロボロでも立ち上がるよ、的な。そういう意味で、例の大衆描写の問題も含めて、このままでは犠牲になる側の人類が立ち上がるには、みたいな話なのかなと。SFですね。
一方で紘汰の極アームズの力が何かしらヤバい力なのも伏線が入り始めて、これはおそらくヘルヘイム世界でフェムシンムたちだけ進化して生き残ったのと同種の力で、紘汰が人間から進化し始めちゃってる的なのかなと。ヘルヘイム世界と人間世界がifで、このままだと紘汰がロシュオさんポジションになるヘルヘイム世界と同じ側エンドだと。話数的にも別解として進めてる、人類側のステージが変化する方にいくのかなぁ。最近のプリキュアシリーズでやってる「幸せの王子と立ち上がる街の人達」と同じで、最近の東映作品が追ってるヒーロー像という気がします。自身が強い存在であること以上に、自身が周囲を立ち上がらせる存在であることというヒーロー像。そういう形で「街の人たち」、強い言葉で言えば「大衆」の方のステージが上がらないと、世界は良い方に向かわないよ、というような。
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