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(画像は『けいおん!』第12話・『ハナヤマタ』第1話より引用)

 シリーズ構成が同じ吉田玲子さんということで、これは色々重ねられて描かれているなという視点で、『けいおん!(!!)(公式サイト)』を意識しながら視聴して感想も書いていた『ハナヤマタ(公式サイト)』という作品。

 本日は、二つの作品で意図して重ねられていると思われる演出を追いながら、逆に「重ねられているけれど、差異もある」という描き方で何を表現していたのかとか、そういう文章を書いてみようと思います。

 記事中はアニメ『けいおん!(!!)』(第1期&第2期&劇場版まで)全話とアニメ『ハナヤマタ』全話のネタバレを含みます点を注意です。
 ◇◇◇

 まずは、本当に『けいおん!(!!)』と『ハナヤマタ』は重ねられて描かれている箇所があるのか、主要な辺りを五つくらい見ていってみましょう。細かく見ていくと無数に出てくるのですが、テーマとか作品の核心に近そうな辺りのみをピックアップしてみる感じで。


1. 第1話で主人公がバンドの演奏を聴くのが重なる

 詳しくは僕が知る範囲で、めっちゃハマって『ハナヤマタ』を視聴していた者の一人、やまなしレイくんのブログのこちらの記事に書いてあるので、そちらを参照してほしいということで、僕の方では軽く。↓


『けいおん!』の更に向こうへ。『ハナヤマタ』第1話が素晴らしかった!/やまなしなひび−Diary SIDE−


 『けいおん!』の第1話で唯が澪律紬の演奏を聴くシーンと、『ハナヤマタ』の第1話でなるがヤヤが所属していたバンド「ニードクールクオリティ」の演奏を聴くシーンが重ねられてるという話ですね。

 リンク先に詳しいですが、ちょっと偶然ではないレベルの演出な感じがしますよね。

 僕もこの辺りから、『ハナヤマタ』という作品は、何か『けいおん!』と重ねる演出を行っていく作品なんだなと気づき始めたのでした。パクリとかのレベルでは勿論ないですし、制作陣が同じだから引出が少なくて同じになってるとかでもなくて、重ねる所を意図して重ねながら、だけど「差異」もあるという部分で『ハナヤマタ』なりのものを表現していくという感じでしょうか。和歌における「本歌取り」の技法みたいな感じです。

 この項目、『ハナヤマタ』の「ニードクールクオリティ」というバンドは『けいおん!』の「放課後ティータイム」の疑似的、if的なポジションで描かれているっぽいとか、コアに『ハナヤマタ』を観ていた視聴者には常識の要素とか、色々あるのですが、その辺りは本記事後半にリンクを張っておくので、興味が湧いた方は僕がタイムリーに書いていた感想記事とか読んでみて頂けたらと。


2. 「放課後」というモチーフが重なる

 『けいおん!』の唯澪律紬梓のバンド名は言わずとしれた「放課後ティータイム」ですし、『けいおん!』という作品には「放課後=輝いた時間」みたいなニュアンスがあったというのは、多くの『けいおん!』視聴者が感じていた部分かと思います。

 で、『ハナヤマタ』の方ですが、象徴的なのはエンディングの導入部分で、五人が学校の授業を終えて、放課後の活動に移っていく……という映像から始まるのですね。

 この『ハナヤマタ』という作品も、「放課後」(的な義務ではない時間の「輝き」について)を扱ってる作品だよ、というのを表現してる箇所かと思います。いわば、「放課後よさこいタイム」を扱ってる作品なのですね。

 この項目も、『けいおん!』と『ハナヤマタ』では部室の表現が違っていて、それは階段と屋上へのドアの境界領域にある『ハナヤマタ』はより「境界」を意識してる作品だとか、色々あるのですが、これも以前の僕の感想記事に譲ります。


3. 「踏切」の演出が重なる

 さて、いよいよ引用画像も付けてみて分かりやすい辺りですが、例えば『けいおん!』の第1話と『ハナヤマタ』の第1話で、「踏切の手前で立ち止まる主人公」の絵が重ねて描かれています。

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(画像は『けいおん!』第1話・『ハナヤマタ』第1話より引用)

 いよいよ、作品の主題とも連動しているであろう、「踏切=境界領域」みたいな演出ですね。

 この「踏切」が何を表現してるのかは、再びレイくんのこちらの記事が十全に語ってくれているので、そちらを参照して頂けたらと思います。↓


『ハナヤマタ』は「踏切」に始まり「踏切」に終わる「踏切アニメ」だった!/やまなしなひび−Diary SIDE−


 第1話時点では、唯もなるも能動的に自分の意志で「踏切」を渡るという感じじゃないのですね。唯は遅刻しそうなだけだし、なるはヤヤに後押しされてじゃないと渡れない。それが最終回になると……というのがこの二作品のかなり熱い部分ですね。

 ここから、「踏切」のような「境界領域」ネタの演出が『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられているという項目が、あと二つ続きます。


4. 「ドア」の演出が重なる

 上記リンクのレイ君のように「『ハナヤマタ』は踏切アニメ」だと表現するなら、僕としてはじゃあ「『けいおん!』はドアアニメ、窓アニメだったじゃん」と言いたくなる感じでしょうか。それくらい、「内と外」に色々な意味を持たせている作品で、その境界領域として「ドア」と「窓」、あと後述の「階段」なんかを使っていた作品だと思います。>『けいおん!(!!)』

 で、『けいおん!』1話と『ハナヤマタ』1話にやっぱり「主人公がドアの前で逡巡する」というシーンが重ねられて描かれているのですね。

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(画像は『けいおん!』第1話・『ハナヤマタ』第1話より引用)

 ドアの向こう側に行けたなら、「輝き」が待ってるかもしれないのに、この時点ではまだ弱い唯やなるはその一歩が踏み出せない、というシーンですね。

 ここでも、唯は第1話時点では自分の意志で軽音部のドアを開けられず律に連れて行かれる形ですし、なるは入学当初は結局文芸部のドアを開けられず、一歩踏み出さない選択をしています。

 なるの方は、その後第1話でもう一か所「ドア」の演出があって、こっちはちょっと自分の意志が感じられるのですね。

 「外」へ繋がる屋上のドアを自分の意志で開けると……、

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(画像は『ハナヤマタ』第1話より引用)

 そこには、

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(画像は『ハナヤマタ』第1話より引用)

 「フェンス」という(内と外の)「境界領域」の上で舞うハナが。

 ハナの作中での特性が「境界を越境すること」というレイくんの指摘はその通りっぽいですね。

 その後、「ドア」のちょうど境界領域でなるは「向こう側」と「こちら側」の間で逡巡します。

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(画像は『ハナヤマタ』第1話より引用)

 本当、ちょっとやりすぎなくらい『けいおん!』も『ハナヤマタ』も「ドア」は心理描写、主題描写の演出に細かく使ってきてると思います。

 このシーンだと、輝いた側(=ハナという仲間とのよさこいの世界)に行きたい気持ちと、これまでの自分のままでいたい気持ちとの「揺れ」を、ドアの境界領域で涙するというシチェーションで表現している感じでしょうか。

 この後、なるはハナに手を引かれて、いよいよ「屋上(=よさこいの世界=よさこい部のメインの活動の場)」へ。

 「ドア」を中心にシーンが重ねられながら、自分で開けた分、なるの方が少し自分で踏み出したニュアンスが強い感じでしょうか。ただそれでも最後の一押しはハナがしてくれてるので、総じて『けいおん!』も『ハナヤマタ』も、第1話時点では唯もなるも成長以前で、自分の意志だけでは境界を越えられない描写だと感じます。


5. 「階段」の演出が重なる

 総じて、「向こう側」と「こちら側」の境界上にいる、という表現に『けいおん!』でも『ハナヤマタ』でも使われてる「階段」。こちらも、両者の第1話に重なるシーンがあります。

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(画像は『けいおん!』第1話・『ハナヤマタ』第1話より引用)

 「境界領域」の途上にいるという表現なので、「向こう側」と「こちら側」で迷ってるとか、揺れているとか、そういう表現で使われていますね。このシーンも、どちらも階段の上に「音楽室のドア」「屋上へのドア」がありますので、「向こう側」の輝きに踏み出そうか、「こちら側」にいたままでいようかと迷ってるシーンっぽいです。

 ◇◇◇

 さて、ここまで見てくれば、確かに『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重なって描かれている部分があるな、そして、それは「踏切」「ドア」「階段」(あと「窓」などもなのですが)のような「境界領域」の演出に顕著だな、という辺りまでは見てとれると思います。

 では、その「境界」に隔てられた「こちら側」と「向こう側」というのは何なのだろうという話を少し。

 もう既に「輝き」という言葉を使って表現してきましたが、「こちら側」が現在のちっぽけな自分、「向こう側」が、理想というか憧れというか、『ハナヤマタ』作中の言葉で言えば「キラキラした」側。そこまでは何となくいいと思います。唯が第1話時点では何かやりたい気持ちはあっても何がやりたいのか分からなかったのは第1話でも最終回の第1話時点を振り返るモノローグでも顕著ですし、なるの方も、明確に物語のヒロイン(=向こう側の存在)に憧れていたというモノローグがあります。

 で、その境界の「向こう側」、「輝き」とか「キラキラ」という言葉にもう少し踏み込んでみて、そこには二つの要素があると思うのですね。


一:自分のやりたいことをやっている状態(自己実現)
二:仲間といっしょの状態(大好きな共同体)


 『けいおん!』も『ハナヤマタ』も概ねこの二つが「輝き」で「キラキラ」だと思います。


一:自分のやりたいことをやっている状態(自己実現)

 それぞれの劇中の唯の何をやりたいのか分からない気持ちとか、なるの自分には何もない人間だという気持ちとか、そういうのからも分かりやすいですが、劇外の一般論で感じても、「熱中できる何かを見つけて、そのやりたいことを夢中になってやっている状態」、わりと理想ですよね。

 他人に言われたままのことを嫌々やってるとか、世のシステムの流れにのって漠然と生きてるとか、そういうんじゃなくて、他の人とは違う自分だけの何かを見つけ、それに熱中し、オリジナルな自分を作り上げていく。自分が自分という物語の主人公になる。そういうのは、わりと一般的にも、現代人の理想だなぁという感覚、あると思います。

 その自分なりの「何か」が唯にとっては音楽で、なるにとってはよさこいだったので、それと出会うプロセスの途中で、ドアとか境界領域を超えて、「向こう側」に渡る儀式が描かれてる感じでしょうか。何らかの形で越境を経験することで、初めてそういう自己実現的な自分なりの「何か」に出会うっていう描き方なのだと思うのですね。


二:仲間といっしょの状態(大好きな共同体)

 これも、劇中の要素を抜きにしても、現代人一般の感覚として、大好きな仲間と一緒にいられた方が、毎日輝いて楽しくなりそうだ、というのは広い母数で共感する人が多いと思います。それこそ劇中では「放課後ティータイム」「ハナヤマタ」の五人が一緒にいる時の、キラキラした感じですね。

 『けいおん!』でも最終回の唯のモノローグでは、唯が高校生活で獲得したものに「夢中になれるもの」とセットで「大切な場所」をあげています。「大切な場所=仲間といっしょの共同体」かと思います。

 『ハナヤマタ』の方はもっと仲間というか、もうちょっと根本的に「人と人との繋がり」みたいなのを主題に押し出してる趣があって、番組開始前のPVにも含まれていた作中のハナのキー台詞は、


 「私は、誰かと繋がっていたいって思っちゃうんです。そんなに強い人間じゃないから」


 です。

 前後の文脈はなるにどうして(フリーランニングとかもやってたのに)よさこいなの? と尋ねられて、ハナがみんなと一緒にやりたいからだと返答する流れですので、劇中の「輝き」には仲間の存在や人との繋がりが含まれていると解釈したい所です。

 ◇◇◇

 さて、そういう、境界の「向こう側」の「輝き」を実現したいわけですが、物語なので、それを邪魔する、抑圧する要素も両作品に出てきます。バトルもの作品だったら敵キャラみたいな存在ですね。理想として、何かに夢中になって輝いてる私とか、大好きな仲間と一緒のキラキラした時間とか、そういうのがあるのは分かる。でも、なかなかそうはさせないよ、という力のようなものが劇中に出てきます。

 この敵キャラ的存在も大まかに二つあると感じていて、それは、


A:世のシステムの抑圧(同調化圧力や無難な消耗品としての大人になれという圧力)
B:仲間を分断する力学(競争など)


 バトルもの作品みたいに全面に出てくるわけじゃないですが、『けいおん!』も『ハナヤマタ』も、そこはかとなくこの二つが障害として五人を覆おうとしてきたりします。


A:世のシステムの抑圧(同調化圧力や無難な消耗品としての大人になれという圧力)

 自分なりの特別を見つけて熱中しようが理想なので、その逆の力と考えると分かりやすいです。他人と同じことをしろ、自分の色や自分の光は消せ、自己実現した大人ではなく消耗品(コモディティ)としての大多数に埋もれる大人になれ、みたいな世のシステムのパワーですね。

 『けいおん!』だと「試験勉強(=画一的な受験勉強をして社会システムが要求する無個性な大人になれ)」とか「マラソン(みんなで兵隊のように同じジャージで同じように走る)」だとか、終盤に焦点が当たる「受験」だとかがこの要素かと思います。そういうことを強制されてる間は自分のやりたいことである音楽はできない辺りも含めて、敵キャラ的な要素という感じです。

 一方『ハナヤマタ』だと、なるが幼少時にトラウマを負った「集団ダンス」や、初期の真智が手放さないでいる「参考書」など。特に「集団ダンス」からあぶれてしまって(他人と同じことをやる力学から外れてしまって)傷ついたというなるの幼少時のイベントは、なるが中々自分のための一歩を踏み出せない足枷として描かれているので、作中でも重要な感じです。

 世の色々な人々が、それぞれの色の元それぞれの花を咲かせられたらいいのに、花を押さえつけるような抑圧がまだまだ溢れてる世だよポイズン、みたいな辺りですね。


B:仲間を分断する力学(競争など)

 こっちは「輝き」のうちの、「二:仲間といっしょの状態(大好きな共同体)」を壊しにかかってくる力です。

 『けいおん!』だと「マラソン」もこの要素っぽいですが、一番焦点が当たるのは、第2期の物語終盤の「受験」という硬直化した(と言ってしまうけど)世のシステムですね。そのシステムに乗っかって流されてるままだと、みんなバラバラに「分断」されてしまう。

 『けいおん!』は番外編の第13話(感想)でわざわざこの「いずれ分断されバラバラになる不安」を描いていて、その時象徴的だったのは、恋愛(律)、バイト(仕事)(紬)、病気(梓)辺りですね。こんな辺りにも、中々に世は大好きな仲間と一緒にはいられない、分断しようとする力学に満ちているという感じが出ていたと思います。

 『ハナヤマタ』だと、中盤のヤヤの物語で、疑似、if「放課後ティータイム」のように描かれていた「ニードクールクオリティ」が本当に共同体崩壊を起こしてますので、より顕著だった感じです。その時の要素にも「恋愛」があげられてたりしましたね。「恋愛」自体はいいのだろうけど、世の消費社会がプロモーションしてるような消費恋愛の力学に捕われちゃうと、自然とそれまで所属していた共同体を壊すように力が働くみたいな感じであります。普遍的な愛というより、より優れた異性を求めての競争原理に飲み込まれちゃってる方の「(恋愛)」ですね(カッコレンアイと読みたい)。

 もう一つも競争原理要素で、ハナのお母さんが以前は進歩志向、キャリア志向で、仕事で競争を勝ち抜いて行く代償として、離婚してハナの家族という共同体を壊してしまっていたというのが劇中で描かれています。進歩とか競争とかのお題目、リアルだと無謬に良いものだと信奉してる方も多い感じですが、両作では、「二:仲間といっしょの状態(大好きな共同体)」を壊す方に働く、「何らかの形で乗り越えたり折り合いをつけたりしないといけない」要素なのですね。敵キャラ的要素です。

 ◇◇◇

 さてここまで、踏切とかドアとか階段とか、「境界」が両作で印象的に使われていることは分かった。その境界の「向こう側」に、「輝き」と言えるような理想があることも分かった。そしてだけど、その「輝き」を邪魔するような抑圧要素が劇中にもあることが分かった……という段階ですので。

 次はいよいよそういった「輝き」を邪魔する「抑圧」要素の乗り越え方です。バトル作品的に修行するとか新たな能力に覚醒するとか新機体発進とかではなくて、上手く劇中の様々な所に意味の体系を盛り込むことで、表現していた感じでしょうか。


TA1:唯の存在

 『けいおん!』では「A:世のシステムの抑圧(同調化圧力や無難な消耗品としての大人になれという圧力)」をぶち壊す、というか、その流れには乗らないよ、というのをやってのけるのは、何といっても唯です。

 試験勉強やらなきゃという抑圧があれば、何故だか演芸大会に出てみたり。マラソンでみんなと同じように走れという状況になれば、全然みんなと同じことしなかったり。卒業式でまで全然無難な大人になる気などないようにひと悶着起こしたり。

 こういう細かい描写を積み重ねた上で、終盤の唯澪律紬は「分断」を拒否して、同じ大学に進学して共同体を続ける……というストーリーラインに説得力を持たせていた感じです。


TB2:外部とのリンクを作る

 『ハナヤマタ』最終回の感想(こちら)に詳しく書きましたが、「仲間を分断する力学(競争など)」という課題に対して、「外部とのリンクを作る」という対策が劇中で描かれていると思います。分断しようとする力が来るなら、繋がりを補強しておけば良いの発想ですね。

 『けいおん!!』からして、物語の後半は、軽音部の部室の中だけの物語じゃなくて、学校の外の世界に出ても仲間との繋がりを続けていけるように、徐々に「外の世界」とのリンクを作る、活動する世界を外の世界に広げていく作劇になってる、というのは放映当時の『けいおん!』感想から書いていたことでした。

 街の演芸大会、結婚披露宴、夏フェス、劇場版では海外……などなどと、徐々に「放課後ティータイム」の活動の場が外の世界に広がっていく、繋がりを作っていくのですね。その繋がりが確かなら、仲間と分断される圧力を受けても、その繋がりを辿ってまた一緒になれるみたいな感じでしょうか。「学校の部室の中」だけだったら学校の卒業と共に仲間と一緒の部活共同体は崩壊ですが、物語の範囲が「学校の外」にまで既に進んでいるなら、そのことが「卒業は終わりじゃない」に繋がるという描き方なのですね。

 これが『ハナヤマタ』だともっと顕著で、オープニング映像からして、外の世界、というか場所に限定されない色々な場所で踊る、というのが表現されています。海をバックに、屋上で、プールで、本当融通無碍に踊っています。で、実際に作品本編でも、学校の中だけじゃなく、街のお祭りとか温泉旅館とか、もちろん最終回の浜でのステージだとか、「外の世界」で、繋がりを作りながら踊り、活動していく。

 そうして形成された「外部とのリンク」が、劇中で描かれる一番の分断、ハナの離脱を乗り越える、ハナの再合流を実現するトリガーになってる、というのは最終回感想で書いた通りです。家族という共同体が再生される(なるパパのなるを想う気持ちやハナ母のハナを想う気持ちが重なるように描かれてる)所から始まって、リンクが繋がっていって、街のお巡りさんとか海ボーズの兄貴とか外部の人との繋がりに助けてもらいながら、ハナが走ってくるラスト。分断、乗り越えられるよ、再合流できるよ、っていう最終回、イイですよね。


C:頑張る

 最後に、世のシステムの抑圧とか、仲間との繋がりを分断しようとする力学とか、そういうのに抗うために、やっぱりこの要素が大事なんだというのも描かれていたと思います。

 『ハナヤマタ』の場合そもそも、第1話でハナがなるに、


 「人は誰でも、頑張れば輝けると思うので」(ハナ・N・フォンテーンスタンド)


 と言ったのに対して、なるが最終回で、


 「誰かじゃなくて、自分が頑張れば、なりたい自分にちょっとだけ近づけるんだね」(関谷なる)


 のアンサー的な台詞を返して、「人は、誰でも頑張れば己なりに輝ける」というテーマを構成美であぶり出すという作品ですので、やっぱり「頑張る」も大事なんだよなと。

 そこで、本記事の主眼、『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出のラスト、


5. 「走る」演出が重なる

 です。

 上記言及リンクのやまなしレイくんの記事で、『ハナヤマタ』には五人全員に「走る」シーンがあり、そのシーンを経て、本当の仲間になるというプロセスが描かれているんだという話があります。で、詳しくは言及リンク参照ですが、確かに五人全員に「走る」シーンがあるんですね。しかもだいたいみんな似たようなアングルで。

 「仲間になる」のもその通りですが、だいたいにおいて、「仲間の元へ走る」を尊いこととして描いているのは確かだと思います。

 で、この「仲間の元へ走る」シーン、『けいおん!』にもあるのですね。

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(画像は『けいおん!』第12話・『ハナヤマタ』第1話より引用)

 『けいおん!』最終回、仲間が待つ学校の講堂へ向かって走る唯。『ハナヤマタ』第1話、ハナの元へ走るなる。

 総じて、人との繋がりを求めて、そこにこそ「輝き」があるような気がして、そういうものを求めて走ってるというシーンだと思います。だから、これらの『けいおん!』〜『ハナヤマタ』の「走る」シーンっていうのは、境界の「向こう側」、理想とか仲間との繋がりに向かって、頑張ってる、頑張るが大袈裟なら、意志(Will)を向わせてるって表現なんだと思うのですね。

 ◇◇◇

 さて、『けいおん!』だと第1話と最終回で唯が走っていて、明らかに構成美としてこのシーンをリフレインさせる演出を使っています。

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(第1話の走る唯/画像は『けいおん!』第1話より引用)

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(最終回の走る唯/第1話とは違いギターを背負ってる点で、唯にも熱中できるものができた、愛しい仲間ができたことを表現している/画像は『けいおん!』第12話より引用)

 この、『けいおん!』最終回の唯のモノローグはアニメ史上に残る名文の勢いだと思うので、全文引用してみたりしてみます。


 そういえば入学式の時もこの道を走った。
 何かしなきゃって思いながら。
 何をすればいいんだろって思いながら。
 このまま大人になっちゃうのかなって思いながら。
 ねえ私。あの頃の私。心配しなくていいよ。
 すぐ見つかるから。私にもできることが。
 夢中になれることが。
 大切な。大切な。大切な場所が。(『けいおん!』第12話より)



 物質的には豊かになっても年間の自殺者は三万人みたいな世相。この唯が抱えていた不安は、広く現代を生きる人々に思う所があるんじゃないかと感じます。京都アニメーション繋がりなら、『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが語る、野球場で「自分が特別な人間じゃないことを理解した」の下りに重なるような不安ですよね。どこまでも、自分は何の特別性もオリジナル性もない存在で、またそういう消耗品になっていくことを求めてくる社会、みたいな。

 その不安への処方箋が、『けいおん!』における音楽や仲間の存在だったり、『ハナヤマタ』における、「よさこい」に象徴される、自分たちだけのオリジナルな世界をコツコツと構築していくこと、なのだと思います。

 さて、実は『ハナヤマタ』も上記のハナの台詞となるの台詞の対応などからも、どう考えても第1話と最終回で対にしてリフレインさせる構成美で作られてる作品なのですが、『けいおん!』とは違って、最終回で「走る」のはなるではなくハナなのですね。

 ここが本記事の核心というか、『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられてる部分があることは分かった。でもさらに、重ねながら敢えて「差異」を出した部分で、『ハナヤマタ』は『ハナヤマタ』なりのものも加えて表現している。という箇所かと思います。

 上記の、課題、敵キャラ的存在の所で触れたように、「仲間が分断される不安」が乗り越えないといけない事柄としてあって、それを昇華する所までは、『けいおん!(!!)』と『ハナヤマタ』で同じなのですね。

 結論も重なる部分があって、それは分断が起こったとしても、「離れていてもずっとずっと一緒だよ」というものです。この五人の仲間の紐帯は一種の永続性を獲得してるので、距離とか関係ないよと、そういう昇華です。ここまでが『けいおん!!』最終回で唯澪律紬が梓に送った「天使にふれたよ」のシーンで表現していた箇所ですし、『ハナヤマタ』でハナがアメリカに帰ってから、なる・ヤヤ・多美・真智が至った境地です。シーンが「屋上」であることまで重ねられています。(『けいおん!』は劇場版で、「天使にふれたよ」に込めた気持ちが明らかになる唯澪律紬のシーンが「屋上」)五人の輝いた仲間のうち、一人(『けいおん!』なら梓、『ハナヤマタ』ならハナ)と別れなければいけないという同種のシチェーションで、至った解答も、「離れていても一緒」という悟りというか昇華というか、そういう感じの永続性の獲得、逆に永続性の一瞬化の獲得、そこまでは同じ。

 なのですが、ここまでで、『けいおん!!』は最終回で、『ハナヤマタ』は第11話なのです。『ハナヤマタ』は、もう1話最終回が残ってる。

 そこが、重ねて描きながらも、『けいおん!』と『ハナヤマタ』で差異を出してきた部分かと感じます。『ハナヤマタ』は、一旦仲間が分断された後に、永続化された繋がりがホンモノであるのを証明するかのように、本当にハナが再合流しようと「走って」くる所まで描かれるのですね。

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(『けいおん!』の最終回、仲間の元へ唯走る/画像は『けいおん!』第12話より引用)

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(その先で待ってる仲間を求めて、唯、踏切(境界)も超える/画像は『けいおん!』第12話より引用)

 一方で、『ハナヤマタ』。

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(『ハナヤマタ』の最終回、仲間の元へハナ走る/画像は『ハナヤマタ』第12話より引用)

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(その先で待ってる仲間を求めて、ハナ、踏切(境界)も超える/画像は『ハナヤマタ』第12話より引用)

 ここまで重ねた上で、『ハナヤマタ』の方にある「差異」は、最終回のハナの方は「閉じた講堂」ではなく外の世界にある「浜辺の境界領域のステージ」に向かって走ってる点だったり、ハナの方は一度別れてからの「再合流」である点だと思います。

 『ハナヤマタ』は第1話冒頭がなるとハナの鏡像表現になってるように、物語冒頭でなる視点で起こったことが、ハナ視点(というか、第1話時点のなるの主観では「輝いた」側にいるように見えた側の人の視点)でリフレインして返ってくるという構成になっています。第1話でハナを求めて走ったなるの気持ちが、最終回ではなると仲間を求めて走るハナの気持ちになって返って来る。本当美しいと思います。

 ここに、ここまで重ねながら演出されると、劇外の文脈込みで、『けいおん!!』で「放課後ティータイム」は確かに一度バラバラになったけれど、最終回で描かれていた彼女らの繋がりの永続化はホンモノで、例えばまた五人で演奏やろうっていう約束に、梓が本当に走ってやってきて再合流してくれた、みたいな、そんな文脈まで僕は感じ取ってしまうのですね。リアル時間でも、『けいおん!!』から五年経ってるというのも効いています。あの頃の繋がり、外の世界に出ても途切れないリンクがあるっていうのが本当なのだったら、再合流、本当にできるんだよ、みたいな。

 何度見ても、「自己実現」という意味でも「仲間といっしょ」という意味でも、「輝き」が顕現するファイナル。走ってきたハナがなるが投げた鳴子(=世界には色々な鳴子がある、というそれぞれのオリジナルがある、という作中是の象徴)をハナが空中でキャッチ。再合流、全員集合した所で、傘が開く(他人とは違う、同調化圧力も関係ない、各々の本質的な「花」が咲くという比喩表現と思われる)。一夜の「ハナヤマタ」=それぞれが己の花を数多(アマタ)に咲かせる「輝いた共同体」が実現する……の流れはグっときますね。

 そして、そういう「輝き」の存在が、様々な人と人とを繋いでいく、という所まで描かれていたと思います。

 『けいおん!(!!)』も『ハナヤマタ』も本当大好き。創作として、世界に欠けてるものを補って傷ついてる心を慰撫するような、世界に誇れるレベルの仕事だと思います。こういう文化を、引き続き応援していきたいと密かに思っております。

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2014-09-26


→「ドア」や「窓」の表現は原作コミックスにもあったりします



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