以下、第5話までのネタバレ注意です。
大まかには、あおい、絵麻、しずか、美沙、みどりという『けいおん!(!!)』的な「輝いた」女子五人の学生仲間が、その後バラバラになり、厳しい社会人時代の大人世界の中で「アニメーション制作」を媒介に再び合流する、というストーリーラインを描いていると思われる本作。
この「バラバラだったものが再び何らかの形で統合される」というのが、単純にメイン五人の人間関係の話だけじゃなくて、制作進行とか原画とか脚本とか音響とか音声とか3DCGとか様々なパートがあって、最終的に一つの作品に統合されていくという「アニメーション制作」の過程ともリンクするように描いている感じなのだと思うのですね。
リアルの真面目な話の方でも、ポストモダンとか流行った頃に相対主義(すごい簡略に言うと、価値観や正義は「人それぞれ」主義)が隆盛して、ちょうど新自由主義的な競争社会が出現していた頃と相性が良かったこともあり、人々は個人個人になって進んでいった、その結果、家族共同体も地域共同体もバラバラに分断されていった……なんて話を持ち出すまでもなく、現在も「無縁社会」のキーワードから、リストラで会社共同体からも排斥される運びになったという話、トドメに東日本大震災と、何かと社会及び人と人との「分断」が意識される世相です。この創作作品でも、何らかの分断されていたものが、新しい形で再合流できるとしたら、どんな形があり得るのだろう、という物語を描くのは時代性があると感じます。
で、「アニメーション制作」というのは単純に各自のバラバラの仕事が最終的に「作品」という形に統合されるという側面だけじゃなくて、『SHIROBAKO』ではもうちょっと哲学的というか、認知科学的というか、それぞれの人物がそれぞれの主観でバラバラに感じていた事柄が、一致する瞬間、あるいは調整し合って、一つのステージアップした形に落ち着く瞬間、というのを切り取っているシーン・展開が多いのですね。
第一話からして、瀬川作画監督が描く原画と、遠藤作画監督が描く原画とでは見解が異なるのだけど、それを主人公の一人であり制作進行である宮森あおいを媒介に「擦りよせる」というのが描かれます。あなたのイメージはそれね、こちらのイメージはこうです、「人それぞれ」でいきましょう。では済まないのですね。少し大げさに言えば、「アニメーション制作」という仕事自体が、ある一点で完成形の映像は一つに決まるという点で、相対主義(人それぞれ主義)を否定する側面を持っているとも言えます。
第2話「あるぴんはいます!」(感想)は僕はボロ泣きだったのですが、あのBパートが何が感動的だったかって言ったら、制作メンバーそれぞれの脳内映像としてあった劇中作『えくそだすっ!』のキャラクター「あるぴん」の映像、特に焦点があたっていた感情演技のシーンに関して、一つの理想形が出現し、それを制作メンバーみんなで共有した瞬間が切り取られているからだと思うのですね。最初は監督の脳内にふってきたイメージだったのだけど、会議室での地道な擦り合わせを通じて、「これだ!」という一つのイメージに決まる。それを、制作メンバー全員で、確かに共有したという瞬間がある。こんな時代でも、想いを、もうちょっと具体的には一つの映像を、みんなで共有する瞬間ってあるんだな、という。そりゃもう、「あるぴんはいます!」としか。
第3話(感想)は、そんな制作メンバーみんなでイメージは共有したけど、まだ具体的な形にはなってない、つまりは沢山の視聴者とも共有できる映像としてはこの世にまだ存在していない「あるぴん」を、みんなの力で存在させる、この世に生み出すエピソードです。詳細は以前書いた感想に譲りますが、まずは総作画監督補の井口さんが形の基礎となる原画を描いて、全員が全力疾走して、「これだ!」と信じた、これは一つの映像に顕現させて、世のみんなと共有する意義があると信じた映像を作っていく過程には大変に胸を打たれました。この回にそれぞれのメンバーが汗を流す様が、上述のように「バラバラになってる人それぞれの脳内映像を、みんなで共有し得る一つの映像へ」とリレーしていく過程なので、大きくはバラバラになった人々が何らかの形で、もう一度再合流する、再び共有できる何かを願う……という過程と重なる感じにもなっていて。「制作進行」という立場で全分野に関わりながら駆けるあおいが、「分断の繋ぎ人」みたいな感じでカッコいい回でもあります。
第4話(感想)も、同じ映画を観ても、今では五人は観る視点もバラバラだ、という話でもあると同時に。それでも、学生時代に、それぞれの脳内イメージを擦り合わせて作った、厳然たる一つの映像作品、『神仏混淆七福陣』は当時の五人が共有した理想形の映像で、時間を超えて五人をまだ繋ぎ続けている、というシーンが印象的でした。リアルを鑑みても、厳しい社会人世界をバラバラに過ごしているのに、そう言えば、あの名作のあのシーン良かったね、という話題で、各々の心に一つの共通の映像を思い出せる、というのは考えてみれば不思議で劇的なことです。映像作品というものには、そういった時間的、空間的分断を超えてバラバラになった人々を「共有体験」に至らせる力が、確かにある。
そして、第5話(感想)は、「爆発の中をバイクで駆けるシーン」に関して、この話時点では、2Dの遠藤さんの脳内映像と、3Dの下柳さんの脳内映像とでは、違う、という所まで。これもどうやら、2Dは2Dだけで、3Dは3Dだけで、「人それぞれ」別の道を行きましょうという相対主義的なまとめ方ではなくて、何らかの形で、「一つの映像」に統合・合流する方向でステージアップするまでの物語が描かれそうな感じで。
作品タイトル『SHIROBAKO』は秀逸だと思って、これは完成したアニメーション作品一話分を収録したもの、つまり、最初に世界に出現した「一つの完成形」を業界用語で「白箱」と言うそうなのですが。上記のように、バラバラの分野を担当した沢山の人々の仕事で、一つの「白箱」が完成する。そして、バラバラだった制作陣一人一人の脳内映像が、より沢山の人達に共有される映像として一つの完成形に統合された存在として『白箱』がある、って感じだと思うのですね。そんな、バラバラであったものが、一つの形に統合される、そして、その統合された形がより素敵なものであるようにとみんなで頑張る、という過程が、五人の主人公たちの「バラバラになったけれど、次のステージで再合流できたなら」という物語にもかかってくる感じで。
第1話のあおいの、(アニメーション作品は)「何十万、何百万の人が一緒に見てるんだよ!?」という台詞が印象的です。現在放映話数までだと木下監督の最終回コンテが終わってないのが不安要素として描かれていますが、一つの理想形としての最終回映像が「白箱」として世に誕生し、人々がバラバラになった世界に一つの(それは視聴してる母数だけの部分的なものかもしれないけれど)「共有体験」をもたらした所で一区切りだとしたら、そのことが、「(例えば『けいおん!(!!)』的な)輝いた学生時代の共同体は、大人になったらバラバラになるしかないのか?」という命題に関して、一つのアンサーを送っているようで、グっときそうなのでした。
→Blu-ray
→主題歌
→第4話、第5話は(そしておそらく第6話も?)同じく「輝いた学生時代の5人組がバラバラになる不安と『その先』の模索」を描いていた『けいおん!(!!)』『ハナヤマタ』のシリーズ構成・脚本だった吉田玲子さんが脚本を担当。↓
●参考:『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について
→前回:『SHIROBAKO』第5話「人のせいにしているようなヤツは辞めちまえ!」の感想へ
→次回:『SHIROBAKO』第6話「イデポン宮森発動篇」の感想へ
→『SHIROBAKO』感想の目次へ
→アニメ『ハナヤマタ』全話感想の目次へ
→『けいおん!(!!)』の感想へ