ネタバレ注意です。
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TVシリーズとその続編劇場版ではテーマや主題の流れを逆転させるというのは一つの作劇上の文法だったりします(最近の有名所の例だと、『まどか☆マギカ』のTVシリーズと『劇場版叛逆の物語(感想)』の関係)が、今作もその流れが見られると思いました。
『ラブライブ!』TVシリーズ第2期のラスト(当ブログの『ラブライブ!』2期最終回の感想)では「学校」という既存の文脈をμ's文脈がハックして(「制服」の上から「μ'sTシャツ」を着てハックしてるという表現など)、「学校」という既存の文脈で終わることはない、μ'sという共同体を続けたいのなら、既存の硬直した文脈はブレイクして他に道もあるよ、みたいな予感に満ちたラストで、現にこうして続編劇場版が制作されたりしました。
なのですが、今劇場版ではそこからもう一度裏返って、やっぱり「学校」という文脈を尊重して、穂乃果たちは改めて「μ's」はあくまで「スクールアイドル」である点に尊さを見出して、その終わりに出来ることをする。「μ's共同体」に(表面的に)ピリオドを打つ様が描かれます。
前半のニューヨークパートが、穂乃果たちが学校(高校)という枠組みでの「μ's共同体」が終わってもやっていけることを獲得(表現)するパートになっていて、海外=外の世界は怖いというのが払拭されていったり、ニューヨークの街をして「どこでもライブできそう」という境地にメンバーが達したり、一番のイベントとしては、「μ's」メンバーとははぐれてしまった穂乃果が、一人で未来軸穂乃果(本当にファンタジー現象としての未来穂乃果本人なのか、そういう風に連想されるif的な別人なのかは解釈を委ねる感じになってる)と出会い、未来軸穂乃果は過去の仲間たちと別れても、ニューヨークの街角の人達と「繋がり」を形成している……という様が描かれます。
なので、後半の展開とも絡みますが、市井の人々みんなが「共同体」だし、誰しも「スクールアイドル」で、そういう人達はどこにでもいて、どこでも繋がっているから、必ずしもこの9人に固執しなくても怖くない、みたいな精神のステップアップなんですね。
「いつだって飛べる」
よく『ラブライブ!』の感想と絡めてこのブログの感想では書いていた『けいおん!!(感想)』終盤のテーゼとも関係してきますが、必ずしも、期間限定の「学校(高校)」の仲間たちに固執しなくても、この世界の中で共同体的な繋がりは形成していける。だから、(学校内共同体としての)「μ's」をある意味手放せる、という境地まで描いているのですね。実際、未来軸穂乃果は、異国の街の人とも歌を通じて擬似共同体を形成したりしているわけです。
後半の、「μ's」と「A-RISE」のみならず、市井のスクールアイドルたち全員でライブをやるために、見知らぬ他のスクールアイドルに会いに行って声をかけるパートもこの心理的ステップアップの補強ですね。海外の人と意外と通じ合えたように、見知らぬ他のスクールアイドルの子とも、意外と通じ合える。「μ's」の「外」は「敵」ではない。そこに新しい「共同体」の萌芽のようなものが生まれるなら、「μ's」の九人だけの共同体に閉じて、続けつづけなくても怖くはない。という、「μ's」だけ共同体から、全人類「共同体」の萌芽へ、みたいな今回の物語。もちろん、この流れは、劇外では『ラブライブ!サンシャイン!!』が発表されてますし、メタにこれからの『ラブライブ!』コンテンツの展開にもかけているのだと思います。穂乃果たち九人だけの作品から、市井のスクールアイドルたちの物語に「開放」しても、『ラブライブ!』は次のフェーズで進んで行ける、という。
ようは「共同体」に関して、『ラブライブ!』共同体とか世界に広がっていって力を持つから……という、ラブライバーだとか、上坂すみれさんの「革命的ブロードウェイ主義者同盟」だとか、僕的には『Wake Up,Girls!』のワグナーだとか、趣味者共同体的な新しい共同体の形が注目されてる昨今ですので、そっちの力も信じようよ、的な方向だと思いました(そっちの力を信じられる(いつだって飛べる)から、物理的な学校のメンバーの共同体は一度終わらせても怖くない)。
この流れは、僕個人としては、やっぱり「家族」とか「地域」とか、そういうある種の束縛も伴った従来型共同体の力がやはり普遍性があるのじゃないかと最近は思索しているので、そうそう市井の人々もみんな共同体だからこれまでの共同体は手放せるよ、という境地に達せるだろうか、とは感じたのですが、方向性としては分かる。
穂乃果が年老いて病気に倒れた時に、その市井のアイドル共同体の「ネクストμ's(的な繋がり)」のメンバーの誰かは、助けになってくれるのか? という辺りまでこの年齢になると考えてしまうのですが、今作では、ニューヨークで一人道に迷った穂乃果を、歌を媒介にして繋がった路上アーティスト(未来軸穂乃果?)が助けてくれたように、そっちの力の可能性を信じたい方向でまとめておりました。
実際、市井のアイドルたちも含めた全員でのライブシーンはそっちの方向の力を表現するのに十分な映像で、こういう「μ's」が残した「スクールアイドル」というアーキテクチャで、「仲間」として目覚めた市井のアイドルたちが、みんなみんな「共同体」なのだとしたら、それは確かに心強い……と思ったのでした。
→前回:『ラブライブ!2期』第13話(最終回)「叶え!みんなの夢――」の感想へ
→当ブログの『ラブライブ!』TVシリーズ(1期&2期)の感想へ