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 アニメ『響け!ユーフォニアム(公式サイトニコニコチャンネル)』最終回「さよならコンクール」の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 久美子が第一話と同じポニーテールになり、続いて麗奈も久美子の手を借りながら髪をポニーテールにまとめ、その檀上に上がる二人が、壇上に上がらない(上がれない)これまたポニーテールの夏紀先輩に敬意を払うという最終回。

 長年の当ブログの解釈の通り、京都アニメーション作品にはいくつか作品をまたいで受け継がれ・進展しているテーマのようなものがあるのと思うのですが、「ポニーテール」は世界中に影響を与えたと言ってよい、ゼロ年代の金字塔のアニメ作品『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストで、いくつかの事柄を象徴させる「記号」として用いられていた表現でした。今回の最終回でもそれを踏まえて演出に使っていたと思いますし、また、第八話で麗奈が「特別」という言葉を口にした辺りから、あ、これは『ハルヒ』でもキーワードとして出てきた言葉だと思って視聴していた方も多いと思います。

 加えて、最終回の「コンサートホール」も、『涼宮ハルヒの憂鬱』における(幼少時にハルヒが訪れて絶望を感じた)「野球場」と同じ意味合いで使われていたと思います。

 同京都アニメーション作品、『Free!』(感想)で描いたテーマ、『甘城ブリリアントパーク(感想)』で描いたテーマを継ぎつつも、『響け!ユーフォニアム』ではそれらのテーマを進展させて表現しているんじゃないかという話は当ブログのこれまでの感想記事で書いてきましたが、感想記事の最後はそれらに『ハルヒ』を加えて、一連の流れの中で、本作『響け!ユーフォニアム』最終回について触れてみたいと思います。

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 前提として、当ブログの感想記事を昔から読んでいる方には繰り返し書いてる話ですが、『京都アニメーション』の作品って、全作品共通で追ってるテーマのようなものがおそらくあって、それは「日常の輝きを取り戻す」というようなものです。日本は先進国と言われてるはずなのに、虚無感はつのり自殺者は毎年3万人とか、我々の生きている日常は充足感とか輝きとか幸せとか、中々感じ難い。そんな世界に対して、何かしらVividなもの、『けいおん!(!!)』以降出てきたキーワードを使えば「輝き」を取り戻せやしまいか、という試論。そういうのをずっとやってると思います。

 この虚無感・自身の無価値感。今作でもテーマになってる言葉を使えば「自分は『特別』ではないという感覚」が物語の根底にあり、そこから日常の中に「輝き」を探っていくということ。この流れの原点はアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭のシーンで、灰色の世界を生きていたキョンが、ハルヒと出会った瞬間に世界に色が付く、という演出だったりします。(アニメ版『CLANNAD』だと、同じく朋也が渚と出会った瞬間に世界に色が付く)。

 その「日常の中のVivid性(輝き)」が、『けいおん!』だったら合宿の日の花火の風景に澪が見出した「今の輝き」だったり、『氷菓』だったら灰色の奉太郎と薔薇色の千反田さんの物語だったり、『中二病でも恋がしたい!』だったら内面で輝いている中二世界の終焉と継続の問題だったり、とにかく、全作品何かしら共通で、こんな世界(社会)の中で「輝き」の在り処をどこに求めるか? という題材を扱っていたりします。

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 それは、本作『響け!ユーフォニアム』でも同じで、最終回の檀上の合奏のシーンは文句なく輝いて見えますので、これが青春の輝きか、というシンプルな話でも十分なのですが、白を映えさせるためには背後に黒を描きこまなくてはならないという道理にのっとるように、この表面的な檀上の「輝き」を際立たせるために、丁寧に背後の黒、闇のようなものを描き、そちらも丁寧に表現していくというのが本作の特徴であったと思います。

 その闇。というのは主には丁寧に描かれる「檀上に上がれなかった人達」の描写に結実していくのですが、前提として、「北宇治高校吹奏楽部」が途切れない仲間・共同体の可能性として描かれる背後に、作中には壊れてしまった、破綻してしまった人間関係・共同体が何重にも描かれていたりします。ざっと、分かりやすいものだけでも、


1.大吉山北中学校吹奏楽部
2.久美子と姉の麻美子
3.去年の北宇治高校吹奏楽部


 の三つですね。

 そのうちの「1」、過去の「大吉山北中学校吹奏楽部」という共同体に関しては、今ではバラバラに分断されたし、冒頭時点では久美子と麗奈の関係に「悔い」を残していたのだけど、最終回のラストが第一話冒頭とリフレインさせる演出も相成って、その「悔い」を残した中学時代のバッドエンドが、最終回ラストではハッピーエンドに変わっている、という描き方をしています。このカタルシスが、久美子と麗奈を中心とした物語としての決着点です。

 それは完結感があるものですが、逆に言うと、「2」と「3」の共同体が崩壊した件に関しては、解決しないで第一期(という言い方をしてしまいますが)は終わってるのですね。

 この「2」と「3」の解決していない共同体崩壊劇の根底にあるのが、これまたいくつかの作品をまたいで最近の京都アニメーションが描いている問題意識、「競争とゼロサムゲーム」です。

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 闇の部分に話の焦点を当てているので暗い話が続きますが、上記「1」〜「3」とも、共同体が崩壊した原因には、「限られた枠を競争でゼロサムゲームに争うしかないのか?」というテーゼがあります。

 『Free!』の第一期のラスト(感想)で選手枠という一つの椅子を凛と怜で競争でゼロサムに争うしかないのか? と描いた部分や、『甘城ブリリアントパーク(感想)』で描いた、一つの「役割」があり、あとは代替可能な消耗品が、より優れたものであれば誰でもイイからその「役割」に収まる、そのために競争の力学で進んでいくだけでイイのか? という命題であったり、近年の京都アニメーション作品には、この「一つの椅子を競争でゼロサムゲームで奪い合うだけで良いのか?」というテーマがわりと頻繁に描かれていると思います。

 今作『響け!ユーフォニアム』でもこの点がかなり描かれていて、目に留まりやすい箇所だけでも、


・全国への切符という限られた椅子を競争でゼロサムで争う
・コンクールに出場できるメンバーの椅子を部内でも競争でゼロサムで争う
・姉の麻美子と葵で描かれる、「受験」という限られた椅子を競争で争うゼロサムゲーム
・秀一の彼女というポジションを葉月と久美子で(結果として、構図としては)争う恋愛のゼロサムゲーム
・トランペットのソロパートという一つの椅子を麗奈と中世古先輩でゼロサムで競争で争う


 などなどと、何重にも作中に埋め込まれています。

 そういう競争を勝ち抜いた末に充実感とかを得るのが、いわば上述した「輝きを取り戻す」にあたっての表解答なのですが、そういうシンプル過ぎる浅い話を描いている作品ではなくて、裏解答の方がおそらく『響け!ユーフォニアム』の本命で、競争を勝ち抜けなかった側の人間はどうやって輝けば良いのか、こっちを核心として描いていると思うのですね。

 檀上のみんなは輝いていた。万歳! で終わりではなく、この最終回にきて、執拗に檀上に上がれなかった側や、競争の中で敗北する側を丁寧に(それこそ京都アニメーションの代名詞の丁寧な作画で)描いていきます。具体的には、今話時点では救いが描かれない側として、北宇治が関西大会に行くぶん、競争で敗北した「りっか(表記に自信ないので平仮名で)」の「あずさ」と、救いが描かれてる側としての夏紀先輩です。

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 ここで、『響け!ユーフォニアム』という作品単体ではなく、そこまで繋がる京都アニメーション作品の流れで本作の最終回を見てみようという話、本命の『けいおん!(!!)』と『涼宮ハルヒの憂鬱』に繋がります。

 『けいおん!(!!)(感想)』の方は、ある種『けいおん!(!!)』のカウンター、「この講堂が私達の武道館です」とか言ってないで、本気で競争にコミットしてみては? それでこそ輝きが取り戻せるのでは? と(表面的には)描いていたフシがある本作。最終回の絵コンテも『けいおん!(!!)』の監督の山田尚子さんですし、何らかの形で『けいおん!(!!)』を前提にした表現や物語が盛り込まれているのは確かかと思っております。

 それは一面では正しく、久美子と麗奈が最終回の「輝き」に到達できたのには、本気で競争にコミットして勝ちに行ったからだということが是として描かれているとも思うのですが、一方で、勝者の椅子は限られています。

 より先にと進歩志向、競争で勝つ志向を持って強豪校「りっか」に進んだはずの「あずさ」は、拳と拳を合わせて励まし合う北宇治の面々と比べて演奏の前に声をかけてくれる仲間もおらず(部内の競争が厳しかったのだと推測される)、最終的には北宇治が勝ったので、関西大会の椅子を争う競争にも敗北した。かなり時間をとって「あずさ」を描写していたことから、敗北する側に焦点をあてていたのは確かだと思いますし、「あずさ」が『けいおん!(!!)』の梓を意識させるように命名されているのでは、というのは以前の感想に書いた通りです。

 つまり、共同体崩壊した中学時代の大吉山北中学校吹奏楽部のバッドエンドを受けて、競争・進歩志向に舵を切り過ぎた「あずさ」は「りっか」へ、引き続き「この講堂が私達の武道館です(競争へのコミットがなくとも「輝き」はあるさ的な宣言)」に舵を切り過ぎたメンバーは南宇治(中学時代の吹奏楽部の大部分が行ったと第五回で言及されてる高校)へ、そして、その両者を縫合するのに成功したのが北宇治高校、ということになるでしょうか。

 「あずさ」が競争志向に舵を切り過ぎて孤独になるというのは『けいおん!(!!)』を踏まえると、唯澪律紬と結局別れた梓が孤独になるような話でいたたまれないのですが、第五回の「あずさ」が久美子の意識からフェードアウトするシーンは、久美子視点では過去に区切りをつけて今を一緒に過ごせる仲間が見つかったというシーンだけど、「あずさ」からすると過去の紐帯に頼れなくなって孤独に落ちたシーンでもあったという。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』との関連は核心なので、次項へ。

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 第八回から出てきた麗奈の「特別になる」は明らかに(これもアニメ化は京都アニメーションですが)『ハルヒ(感想)』が本歌になっていて、ようは幼ハルヒが野球場の五万人に感じた「自分は特別でない」絶望を、キョンの白雪姫のキスで浄化するまでの物語です。

 他者(キョン)から与えられた承認(というかまあLOVEだとは思うのだけど)が、「自分は特別でない」という自身の無価値感を浄化し、この日常の中でもある意味自分は「特別」であったのだというシーンですね。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』自体はそこでハルヒが(ある種)の「特別」を得て完結感がある形で一度閉じているのですが、その後の「京都アニメーション」作品は、「ハルヒ」からテーマを進めて、「でもハルヒだけが特別じゃダメだよね」という所まで物語を進展させています。

 顕著なのは「京都アニメーション」の前作『甘城ブリリアントパーク』で、ハルヒ一人じゃなく、野球場にいた五万人の残りの四万九九九九人も「特別」だったんだ、というメッセージを描いていた作品だというのは、以前のこの記事に書いた通りです。↓


甘城ブリリアントパーク/感想/第12話「未来は誰にも分からない!」(ネタバレ注意)


 ラストのサッカー場の収容人数も「五万人」と『ハルヒ』の野球場の「五万人」とわざわざ同じにしてますからね。何らかの関連表現なのは間違いないかと。

 そして、そのメッセージで描いていたのは、ハルヒ以外、残り四万九九九九人はゼロサムゲームの競争の中では敗北する側なのかもしれないけれど、それでもあなたは大事だってことです。

 『響け!ユーフォニアム』に当てはめると、麗奈以外は、四万九九九九人側です。(あすか先輩は特殊枠なので後述。)

 ユーフォのパートの競争に敗れた夏紀先輩、トランペットのソロの競争に敗れた中世古先輩、そして、前回ユーフォのパートを外された久美子も、「競争を勝ち抜く」観点からは勝ち抜けなかった四万九九九九人側。音楽関係以外にももっと広げると、恋愛で久美子に(結果として構図として)勝てなかった葉月も、受験(競争の代名詞です)で敗北した姉の麻美子も葵も、その他大勢も、四万九九九九人側。

 この四万九九九九人側も何らかの形で「輝き」を取り戻さないと、真のハッピーエンドには到達できない。

 先に絶望的な話から書いておくと、残念ながら第一期(と言ってしまうけど)ではこの真のハッピーエンドは未踏のままで終劇していると思います。象徴的な三人が、「輝き」を取り戻す様は明確には描かれていないから。(白を際立たせるために黒よりの部分を描いてるということなので、作品の欠陥というわけではありません。念のため。)

 一人目は、途中である意味「北宇治高校吹奏楽部」共同体から排斥された葵で、二人目は久美子の姉の麻美子で、三人目は関西大会への切符を手にしてなお表情をくもらせるあすか先輩です。

 葵の方は、最終回に何か救済パートが入るのかなと思ってたのですが、そこはシビアでした。檀上のメンバーが輝いてる背後で、そこに入れないものがいる、というパートを、「あずさ」と共に担っていたと思います。

 久美子の姉の麻美子も、重要なシーンとしてコンクール当日の朝に久美子と遭遇しますが、麻美子自身が、吹奏楽をやめた後に自分なりの「輝き」を見つけられたのかとか、そういう話は描かれないまま終わっています。

 あすか先輩の方は特殊なのですが、競争の中「勝って」はいるのですが、おそらくそれなのに虚無感は晴れなくて「輝き」には至れないというキャラクターなのですね。逆説的に「競争の勝利のみが『輝き』ではない」を証明してしまってるキャラクターだと思うのですが、いわば『田中あすかの憂鬱』です。恋愛にも興味ないので『ハルヒ』における「白雪姫のキス」も効果薄そうですし、あすか先輩の憂鬱がいかようにして晴れ得るのか? というのは今後の興味深い題材です。

 そういう、「輝いた場」にいられない者、「輝いた場」にいるはずなのに「輝き」は感じられない者、そういう人間もいるという背後の話をした上で、最後にそれでも描かれる希望について。

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 我々はハルヒになれないし、大部分は競争を勝ち抜けないし、特別な一人などではなく四万九九九九人側だ、という絶望を踏まえた上で、それでも「日常」に輝きを取り戻せるとしたら、という点は二つ描かれていて、一つは前回久美子が至った「好き」という気持ち。

 最終回の久美子は第十二回でユーフォニアムが好きという自身の本懐に気づいた真・久美子相当になっているので、第一話冒頭と各所の演出を重ねながら、「輝き」を取戻しつつあるのが描かれます。自室の鏡の前のシーンとか、第一話と最終回で変わってる演出などはイイですね。何となくユーフォを続けたというだけだった久美子から、自身の本当の気持ちを知った久美子にステージアップしてるのです。この、劇的に勝利したりはしないのだけど(ユーフォのパートは外されたまま)、静かに自分は変わってるという描写はイイですね。

 もう一つは、これまでの感想では「縁」という言葉を使ってきましたが、ありきたりな言葉になりますが「他者とのつながり」だと思いました。特に、競争で勝利した側と、敗北した側の繋がりです。前回の謝罪するシーンで競争の勝者の麗奈と敗者の中世古先輩・優子のつながりも縫合されてますし、ユーフォのパートを吹けるあすか先輩と吹けない久美子も、演奏の直前に一瞬だけ、触れ合えるんですね。この、あすか先輩の本心は最終回まで明確には見えなかったし(多数決に自分は参加しない、麗奈と中世古先輩のどちらにも加担しない……などから、ゼロサムゲーム関係の憂鬱なのかな? と想像したりはします。)、上記のように憂鬱が晴れないポジションの人なのだろうけど、ここで微かに、微妙な塩梅だけ勝ち抜ける者と勝ち抜けない者との間に交差が生まれる、みたいなシーンは本当良いですね。

 そして、本作の核心だと思う夏紀先輩。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年版の)最終回(感想)でハルヒがポニーテールにしてるシーンは最早世界中で有名なのですが、あれはようは「ハルヒの憂鬱が晴れている」、自分が誰か(キョン)の特別だと補填されたので、「『特別』を取り戻している」という記号なのだと思うのですね。大仰な非日常世界じゃなくとも、勝ち抜いて五万人の中の一人にならなくても、この日常である種の「特別」に辿り着けたというシーン。

 髪の色の類似、ポニーテールをキーワードに夏紀先輩は久美子のifポジションだと早い話数から指摘していたのは丁稚さんの記事ですが。↓


『響け!ユーフォニアム』3年生メンバーたちの関係性に萌える/ねざめ堂織物店


 ハルヒになれるかもしれない麗奈、檀上には上がれるけど競争では勝ち抜けない側の久美子に次いで、檀上に上がれずに敗北した側の夏紀先輩もポニーテールなんですね。

 この、ポニーテール=「特別」の記号を夏紀先輩が纏っていた意味が、最後に明かされる……というだけで、この作品を観ていて良かったなぁ、と思いましたね。

 麗奈級(ハルヒ級)になんかもちろんなれないし、久美子にも競争の観点からは敗れてしまう夏紀先輩だとしても、やっぱり彼女も「特別」なんだ、ポニーテールをまとっている資格があったんだ、という最終回。麗奈と久美子が夏紀先輩を「イイ」と評するんですが、もう、視聴者としても、圧倒的にこの夏紀先輩の「イイ」感じは分かるんですね。この「イイ」こそが「輝き」であって、それは麗奈級や物語の主人公(久美子)級だけが持ってるわけじゃなくて、夏紀先輩のような敗北者的で脇役的で、四万九九九九人側的な人でも、持ち得るものなんだなっていうのを、切り取っていたと思います。2006年はハルヒは一人だった。2015年は三人になり、気が付けば誰もが……。

 ここで、夏紀先輩を象徴に、『ハルヒ』では野球場、『甘ブリ』ではサッカー場にテーマパーク、今作ではコンサートホールに重ねられた「場」にいる誰もが、この「ポニーテールをしたハルヒ」的な「特別」性を宿した存在なんだっていう所で物語は決着していたと思います。

 丁稚さんも指摘してる通り、番組の制作の所のイメージ画像も、ハルヒの時のハルヒ一人から、吹奏楽部全員に変わってる点で、この「総ハルヒ化」的なテーマは表現していたっぽいですしね。↓


『響け!ユーフォニアム』で描かれる「異質な他者」の可能性/ねざめ堂織物店


 「場」から排斥された葵の存在、「場」にいても憂鬱をどこかにまとってるらしいあすか先輩の存在、そこだけは少し置いておいて、今コンサートホールにて、競争に翻弄され、共同体の分断が起こった中学時代の吹奏楽部、姉の麻美子との関係、去年の北宇治高校吹奏楽部の物語をも救済するように、「分断」を「縫合」する麗奈のソロパートが響き渡る。

 「分厚いドア」という「分断」の象徴装置越しでも、聴こえてくる檀上の「特別」を目指す麗奈のトランペットというシーンが見事です。檀上に上がれなかった夏紀先輩と葉月がそれを聴いて応援している。競争の勝利者と敗北者を「分断させない」音楽。

 物語冒頭こそ、競争を勝ち抜きたいっていう進歩志向の人なのかなという表面的な印象で始まった麗奈だけど、そういえば第三回(感想)でドヴォルザーグの望郷の念(進歩志向の逆)を込めてトランペットを吹いていたし、「あずさ」とは対照的に滝先生との繋がりを求めて北宇治に来たという、けっこうウェットな人なんですね。そういう意味で、彼女もハルヒのように、非日常に「特別」を志向しながら、人とのつながりなどを断ち切りきれない人だった。

 かくして、やっぱり競争にコミットして勝ち抜くって素晴らしいね、青春だねという側面のみから作り上げられた作品というわけではなくて、こうした競争で敗北する側の気持ちとか、(分かりやすい意味での)「特別」にはなれない側の気持ちとか、そういう側の気持ちに寄り添ってる作品で、そういう弱い人間が自身の無価値感とか孤独とかにさいなまれないように、ただ「分断」を克服する音楽が流れる。そういうシーンにこそ『響け!ユーフォニアム』という作品の核心があったと思ったのでした。

 堪能した全十三話でした。制作陣に感謝を。

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→サントラ



→前回:『響け!ユーフォニアム』第十二回「わたしのユーフォニアム」の感想へ
→次回:『響け!ユーフォニアム』番外編「かけだすモナカ」の感想へ
『響け!ユーフォニアム』感想の目次へ

●合わせて読むのがお勧めその1:『響け!ユーフォニアム』を振り返る 前編:他者の異質性の肯定/ねざめ堂織物店
●合わせて読むのがお勧めその2:『響け!ユーフォニアム』を振り返る 後編:ポスト・キョンとしての黄前久美子/ねざめ堂織物店
●合わせて読むのがお勧めその3:アニメ『響け!ユーフォニアム』各話感想メモまとめ(1話〜最終話)/やまなしなひび−Diary SIDE−

【関連リンク:これまでの当ブログの京都アニメーション作品感想】

『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら

『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
『境界の彼方』最終回の感想はこちら
『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら

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