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 五十嵐貴久さんの、実際の気仙沼のアイドルグループ「SCK GIRLS(公式サイト)」を題材にした作品。『気仙沼ミラクルガール』の感想です。

 震災後の気仙沼、東北が描かれるという題材上、読み手の経験によって受け取るものが様々な作品かと思いますが、個人的にも東北で被災して色々大変だった立場の読み手の一人として書き記しておきます。
 まず、詩織にしろ隆一にしろ、物語冒頭時点(2011年後半頃)の虚無感が凄く、その感覚が分かる。少し冒頭箇所から文章を引用。

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 県が通うように指定してきたのは、歩いて二時間以上かかる場所にある高校だった。
 行こうとは思った。行かなきゃまずいってわかってた。でも無理。
 二時間って何? まだバスも通ってないし、電車なんて何年後に復旧するかもわからない。
 今さら高校に行ってどうなるのって思ったところもあった。何人も同級生が亡くなってる。おじいちゃんたちも、近所の人達も。人間なんてあっさり死んじゃうものだ、と実感していた。
 卒業して大学へ行く? 就職する? それでどうなるの? 車に轢かれて死んじゃうかもしれないでしょ? そしたら意味なくない?


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 あまりに大きく何もかも壊れてしまったし、近しい人が死んでしまうのも経験してしまったので、これから頑張って何やっても無意味、どうせまた大きい破綻がやってきて、何もかも失って終わり。こういう、虚無感。

 僕個人はだいたい二年近くくらい重く感じていました。『妹の紋章』書き終った頃に、ようやく少し変わってきたくらい。仙台の僕でもそうだったのだから気仙沼の人はもっと重いであろうと想像しますし、現在、五年経った今でもその虚無感が未だ色濃いという人も大勢いると思います。

 どうせ大きい破綻がやってきて何もかも失ってしまうし、失った、という感覚は、「終わり」が強く意識されるということです。それは、突き詰めると人間にとって「死」という終わりを感じてしまうことに繋がります。どうせ死ぬのに、生まれてきてどうするんだ? という問いを感じてしまう。終わりが大災害による破綻とか死なら、アイドルも小説も漫画も音楽も映画もその他の文化的営み全般も、やっても意味なくない? 僕も特に2011年〜2012年くらいに感じていました。

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 その「どうせ終わりが来るのに、アイドル活動(的なもの全般)やっても無意味じゃない?」という問いに対して、実は余命が宣告されていて、自分自身という命に「終わり」が来ることを知っていたサトケンさんが、それでも「KJH49」というアイドル活動をやっていた、やった、という物語です。


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 「KJHが本物のアイドルグループになれるか、サトケンさんにも確信はなかっただろう。でも、そんなことはどうでもいいんだ。何かやりたい。何かになりたい。変わりたい、そう思って一生懸命やるなら、それでいい。サトケンさんはそれを伝えたくて、KJHを立ち上げた。大震災でこの町はどうにもならなくなった。誰もが絶望していた。そうじゃねえだろって、あの人は言いたかったんだ。立てよ、やってみようぜ、そういうことだ」

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 本当に無意味だったのか? というと、アイドル活動として人々に笑顔と希望を与えたとかの他に、劇中では、KJHの活動を通して、物語冒頭では自分の無価値感にさいなまれていた詩織と隆一が、それぞれ自分を肯定してもらえて、自分の価値をもう一度信じてみるようになる、という変化が重要な要素として描かれます。

 物語冒頭では引きこもっているしかなかった、死にたいと思うしかなかったナイーブな詩織は、家族、特に最終的には父親からも承認を受け取り、またリューが代替する形でサトケンさんからの「よく頑張ったな」を受け取ることができる。隆一も、ずっと音楽活動で東京で挫折した自己無価値感を引きずっていたのだけど、最後に、サトケンさんから、その過程こそがお前の才能なんだと承認してもらえる。この、「自分にはもう価値がない」と感じていた人間に、「いや、あるでしょ」って言ってあげる。二人は、震災後に傷ついている人々の代表みたいなものだと感じました。もう、せいいっぱい頑張って頑張って頑張ってる。だけど(分かりやすい結果は出ない、出せないからね)自分自身は無価値だという感覚だけがつのる。そういう人に、「過程」……やがて「死」という終わり、結果が来るとしても、生きてる、頑張って何かをやってる、やったという過程に意味はあるよ、あなたに価値はあるよと言ってあげる、そういう物語で、


 解散して夢破れるという結果に終わった隆一の東京での音楽活動
 成功なんてしないかもしれない気仙沼のアイドルグループKJHの活動
 死という終わりがくると知っていてKJHの活動を始めたサトケンさん
 明るい未来が来るのか分からない復興活動


 こういう要素が、やがて破綻的な終わりが来るかもしれないけれど、その過程で一生懸命であることに意義はあるんじゃないか、という要素で重なっているのですね。ラストなんて、東京でのステージが成功するかどうか(結果が出るかどうか)は相当劣勢なところで、それでもKJHが仙台駅東口から東京行きのバスに乗り込む所で終わってるでしょ。それでも「やってやるよ」という詩織の気持ちが、結果は出せなかったけど頑張った隆一、死ぬと分かっていてもKJHをやったサトケンさん、上手くいくのか分からない復興、それでも「やった」「続けた」「過程でがんばった」人々の救済になっている。

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 そして、「代替」の物語でもある。

 本当に言葉を交わしたかった人々は、亡くなってしまったから、生き残った人々で、代替、補い合いながら生きていく。

 両親に詩織と知佐の二人の娘という構図は、震災で二人の娘を失ったサトケンさんの過程のif、代替だし(そういう意味で、明確には描かれないですが、サトケンさんが詩織を承認してあげるという方向だけじゃなく、詩織をはじめKJHの子たちが、娘を失ったサトケンさんを代替的に支えていたという双方向の構図にもなっているのだと思う)、隆一を承認する言葉を最後にかけるのがサトケンさんなのも、本来的には隆一は実のお父さんから欲しかった言葉なのだろうけれど、お父さんは震災で亡くなってるから、代替としてサトケンさんがその役割を果たす。そういう隆一自身が、最後はサトケンさんの代替となって、詩織に大事な言葉を伝える。失ってどうにもならないことを、補い合いながら、何とか生きていく。

 やがて終わりがくる、実感として経験してしまった大きい破綻を前にその虚無感はぬぐいがたいし、そういう時に一番言葉をかけてほしい人はもういなかったりする。でも、それでもあなたの過程(生きてる時間)に意味はあるんだと言ってあげたいし、一番大事な人がもういないならせめて代わりとして言ってあげたい。

 だから、本当は悲しいんだけどあえて。

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 「あたしたちはアイドルなんだよ? 笑ってナンボでしょ? スマイル!」(詩織)

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 良い小説でした。

気仙沼ミラクルガール
五十嵐 貴久
幻冬舎
2016-02-29




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参考:『Wake Up, Girls!』全話感想