ネタバレ注意です。
前話までも描かれていた「すれ違い」要素が、また改めて描かれていたと思いました。
前話までは、通信、電話、スマートフォン、ネットの知恵袋的な何か……などなどと「直接的じゃないコミュニケーション方法」だと「すれ違い」とか起きやすいよという方に焦点があたっていて、だから直接由希奈と剣之介が面と向かって対話する山のシーンが、「解消」に向けての山場として描かれていたと思うのですが。
今話の「すれ違い」は直接対話していてもなお生じているので、「すれ違い」=「(人と人との間に生じる)ディスコミュニケーション」というものに関して、より踏み込んできている感じです。
今話で焦点があたってる「すれ違い」のメカニズムをコメディ調のパートながらエッセンスとして示しているのは、茉莉那先生のパートで、剣之介や由希奈の悩みの背景を先生が勝手に想像して、結果剣之介や由希奈と「すれ違って」いるというパート。つまり、「誤認」、もうちょっと踏み込んで、絶対的に公正な見方というものなんかなくて、どうしてもそれぞれの主観の「色眼鏡」をかけて「人は自分が見たいものを見てしまう」という要素が、今話から焦点があたってる「すれ違い」要素の主眼かと思います。
そう思うと、わりとストーリーの中心部分でも、この「誤認」・「人は自分が見たいものを見てしまう」要素が描かれているのに気づきます。今話だけで、ざっとあげただけでも。
・剣之介の過去の出来事(剣之介自身も自信がないし、周囲も実はエフィドルクの仲間なんじゃないかとか、それぞれが見たいものを見る、見たいように解釈しようとする)
・由希奈が山で見たものは(同じく由希奈自身も自信がない)
・パイロットになる自分という自分が見たいものを見る赤城くん(周囲(代表は学校の武隈先生)との「すれ違い」)
・フスナーニが事情聴取で語る内容全般(地球人側も自分たちが解釈したいように解釈しようとし、フスナーニ側もクロムクロについてこういうことなんじゃないかという解釈を語っている)
などなど。
いずれも、直接会って話してはいるのですが、それぞれの解釈を伝聞形式で聞くしかないので、語ってる本人の見たいものと、伝聞で聞いた人たちが見たいものとに「すれ違い」が生まれているのが描かれていると思います。
この「誤認」・「人は自分が見たいものを見てしまう」要素、実は(たいてい作品のエッセンスが詰まっている)第一話の、「剣之介が由希奈を姫だと思ってしまう」もこの要素だったりで、けっこう作品の核心に食い込んでる要素なのですよね。もう一つあげるなら、「由希奈のお父さん」が、まさにこの要素を前提にして物語上に配置されてるのだと思うのです。劇中の人物も、視聴者のみんなも、「由希奈のお父さん」はきっとこういう人だと、今の所「自分が見たいものを見る」しかない。オープニングの怪しげな印象とか全部こちら側の「色眼鏡」ゆえんで、実はめっちゃ良いパパだった! という真実も十分あり得るわけで。
そして、こっちの「誤認」・「人は自分が見たいものを見てしまう」要素に基づく「すれ違い」も何らかの形で「解消」に向かっていくと思うのですが、その萌芽が第三話から繰り返されている「信じる」というキーワードであり、今話のアバンの剣之介と小春のパートなのかなと。
周囲が「自分が見たいものを見る」要素に基づき、剣之介は敵だと言ってるのに対して、小春は違うと、剣之介を「信じて」いるわけです。「直接的じゃないコミュニケーション方法」も「誤認」もフっとばし、第三話で実際に剣之介は命がけで小春を助けに来てくれたし、伝聞じゃなくて、「今、ここ」で実際に食卓を囲んでいるわけだから。
この作品、剣之介と小春の信頼関係の部分はとても好き。同人誌とか作るなら、剣之介×小春ですよ。事案だ!
こういう流れなので、人類とエフィドルクさんで鍋を囲んで話し合いオチがイイなぁ。茉莉那先生もエフィドルクさんも、さすがに食の場を囲んで面と向かって話せば、誤伝達の割合マシになるでしょ。
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→前回:クロムクロ第9話「岩屋に鬼が嗤う」の感想へ
→次回:クロムクロ第11話「闇に臥したる真」の感想へ
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