ブログネタ
ハイスクール・フリート感想 に参加中!
 アニメ『ハイスクール・フリート(公式サイト)』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 『けいおん!(!!)』〜『たまこまーけっと』〜『ハナヤマタ』ラインの、吉田玲子さんシリーズ構成の「(擬似)共同体」ものテーマの作品と感じる本作。

 3.11(東日本大震災)以降、無条件の「日常」というものは描かなくなった吉田玲子さん。その辺りの変化は『けいおん!(!!)』→『たまこまーけっと』の流れに顕著だと思っているのですが。

 本作の場合、第7話「嵐でピンチ!」の感想で書いた通り、明乃はおそらく震災孤児の比喩というポジションで描かれているキャラクターです。

 一方で、ましろさんを象徴に、他の「晴風」メンバーは過去の破綻的な出来事(リアルの比喩としては震災)を経験しなかった普通の人として描かれています。両者の間には意識のギャップが描かれます。リアルに絡めるなら、それは被災地域で生きてる人の感覚と、被害がなかった地域で生きてる人の感覚との間にあるギャップです。そのギャップが、ましろさんが実際に自分が「非日常」から救助される経験をして、ちょっと明乃さんの感覚に近づいた、ギャップが埋まり始めた、というのが描かれたのが重要話である第7話「嵐でピンチ!」でした。

 また、前回はようやっと「日常」が戻ってきたように「お祭り(それこそ『けいおん!(!!)』の学園祭的な「日常」の時間)」が描かれるのですが、明乃だけはそれが無条件のものじゃないと自覚的、というシーンが描かれます。あんなに楽しいお話なのに、ラストシーンは晴れない表情の明乃。明乃には、もう一つのかけがえのない「日常」の象徴であるもえかとの紐帯があるのですが、それはまだ戻ってきていません。そういう、「日常」への復帰度には個人差がある、と、ここでもまだ残るギャップが描かれてもいたのが第10話「赤道祭でハッピー!」(感想)でした。

 その流れの中で、物語当初から明乃についてまわった「全員は助けられない」問題と絡めて、明乃は個人的に大事なもえかを助けたいけれど、その代わりにようやっと手に入れた「日常」=「(擬似)家族」=「晴風」のメンバー達を失うのは嫌だ、という最後の葛藤が描かれます。自分が被災者ですから、同じ被災者の友達は助けにいきたいです。でもあれから五年経って手に入れた、今の「日常」を生きる「(擬似)家族」に、自分たちと同じような目には合ってほしくない、みたいな葛藤です。

 ここで、「震災孤児」のポジションである明乃から、視点は「あんまり被害を受けなかった普通の人」の立場の代表であるましろさんに移ります。家族を失って「日常」が壊れた明乃に対して、ふだんそこまで意識せずにバラバラに暮らしているけど家族が健在で、「日常」を普通に生きてきたましろさんです。この普通の人であるましろさんの、明乃に何かしてあげたい、だけど自分にその資格があるのか? という視点は、リアルで「被害がなかった地域で生きてる人」が抱いてきたこの五年間の気持ちと同期します。そもそも、そういう人(明乃のような立場の人)に何を伝えればいいのか、どう言葉をかけたらいいのか。

 ここで、実質麻侖さんの言葉を借りて、この作品で一番のメッセージが発せられていると思うのですが、いいから行けと、ましろ(=被害がなかった地域で生きてる人)にも出来ることがある。「日常」が壊れた人と、「日常」を生きている人は、補い合えるはずだ、というメッセージが描かれます。

 明乃さんのもとに走っていくましろさんのシーンが感動的です。ある意味、明乃さんみたいな立場の人にずっと言ってあげたかったけど、なかなか言えなかった言葉。

 明乃の「マヨネーズ」になる、というのは、麻侖さんの言葉を黒木さんが翻訳したように、あなたのできないことを補う存在になる、という一番の意味ももちろんあるのですが、おそらく、「マヨネーズ=日常」の意味をかけています。今話では、未だに危機の中にある「武蔵」のもえか達が非常食を食べているのに対して、「晴風」ではちゃんとしたご飯が出ているのが印象的に描かれていますが、マヨネーズ、「日常」があるからこそ得られる嗜好品って感じですよね。つまり、あの日「日常」を失った明乃の欠けた半身を埋める、「日常」に私がなる、とましろは告白しているのです。

 そこから、「晴風」内の各パートがリアル社会の様々なパートの比喩なんだろうなとずっと感想では書いておりましたが、ばーっと、「日常」を生きてる人たち(=他の「晴風」メンバーたち)の決意が描かれていきます。炊事員の子達がごはんの前で手を合わせるのは熱い。戦時下でも、災害下だとしてもごはんを作るのが「日常」の人の矜持。個人的にも、本震の翌日からたこ焼き焼いてたたこ焼き屋のおじさんこそが真のヒーローだとずっと思っています。私たちは、明乃のような立場の人達を、見捨てないし、今度は助ける、「日常」ナメんなという覚悟のシーンです。

 ここで、前話まであった、明乃と「晴風」メンバー達のギャップ、非対称性が解消されます。震災孤児も日常を生きてきた人も、ついに対等に。明らかに「ネコ」にも「=日常」という比喩を絡めていた作品でしたが、五十六(ネコ)から明乃が帽子を受け取り直すところはグっときましたよ。あの日「日常」を失った人が、「日常」と再契約する、というシーンです。変わっているのは、明乃はもうあの日の無力な子供ではない、ということ(帽子に象徴されてる事柄)です。

 リアルでも、震災当時の子供達に話を聞くと、多く寄せられる言葉は「何もできなかった」。

 いいから、自分たちのことはパージして逃げろと伝えてくるもえかは、あの日の無力で、そしてその後、周囲の「日常」を維持するために自分の本心はオープンにしてこなかった(することができなかった)明乃自身です。それゆえに明乃にはもえかの助けを求める本当の声が聴こえています。震災被災者に限らない事柄ですが、「大丈夫」って言ってる人はたいてい全然「大丈夫じゃない」からね。

 大人は、助けを求める子供の頃の自分自身を助けにいかないといけません。ようやっと欠けていた「日常」と縫合された明乃から、未だ「日常」が欠けたままのもえかへと返信、「救出に向かう」。

 という感じで、被災者側よりも、むしろ「日常」側の人達の矜持、というような作品でありました。「日常」=「家族」という比喩もある作品です。この作劇だと、疑似家族をかけがえのないものとして寄どころにするしかなかった、本当の家族を失った明乃ともえかに対して、なんだかんだでリアル「家族」は持ってる(それゆえに「日常」の人を体現するポジションになってる)ましろさんをキーに、助力が集まってくれるのかな。お母さんも出撃するし、お姉さんも向かってるっていう短いシーンがありましたからね。ましろさんがお姉さんにいじられてるどうでもイイシーンとかが実は大事だったという相変わらずすごい脚本ですよ。

 あとは、できればミーちゃんも来てほしい。なんで、自棄にも近いような行動で明乃がミーちゃんを助けにいったのか、ここまでストーリーが進むと、あの日の自分の破綻と漂流するミーちゃんを重ねていたのだと分かります。欠けている自分の逃避的行動だったとしても(リアルでも、自分自身が被災者なのに被災者を助けようとする人は多い)、そういう頃の「助ける」という行動にも意味はあったんだよ、みたいなのを表現してくれたら本当泣きそうです。

→Blu-ray



→小説

ハイスクール・フリート いんたーばるっ (MF文庫J)
姫ノ木あく
KADOKAWA/メディアファクトリー
2016-06-24


→前回:『ハイスクール・フリート』第10話「赤道祭でハッピー!」の感想(ネタバレ注意)へ
→次回:『ハイスクール・フリート』第12話(最終回)「ラストバトルでピンチ!」の感想へ
『ハイスクール・フリート』感想の目次へ

【関連リンク1:当ブログの吉田玲子さんシリーズ構成・脚本作品の感想】

『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想へ
『けいおん!(!!)』シリーズ構成の吉田玲子さん脚本による「バッドエンドけいおん!」を浄化する物語〜無彩限のファントム・ワールド第7話の感想(ネタバレ注意)

【関連リンク2:当ブログの2015年アニメーション作品ベスト10記事】

2015年アニメーション作品ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)