ステージの上のアイドル達はあんなに頑張って輝いているのに、僕/私達はステージの下で光る棒を振っているだけでイイのか?
このライブ会場から帰ってきた「日常」の中で気づいてしまう「違和」を、仮に「光る棒問題」と名付けてみます。
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さて、昨年2015年末はNHK紅白歌合戦にも出場したμ's(ミューズ)率いるアイドルプロジェクト『ラブライブ!(公式サイト)』。凄いです。海外にもファンが多いです。
そんな『ラブライブ!』プロジェクトの「次の世代編」的な作品、『ラブライブ!サンシャイン!!(公式サイト)』がこの夏・2016年7月から始まります。楽しみですね。ヨハネさん可愛いですね!
●参考:「スクールアイドル・プロジェクト 第0話」としての『ラブライブ!The School Idol Movie』/ねざめ堂
いわば「スクールアイドルシステム」を「次の世代」のために整備して、自分達は去っていく……というアイドル像。
作品のラストとして美しいですが、そこで、ぐっと視点を「次の世代」の『ラブライブ!サンシャイン!!』のユニット、Aqours(アクア)の人達の目線に合わせてみましょう。あんまり「アイドル」という題材だと想像しにくいという場合は、会社の後輩とかを想像してみるとイイかもしれません。次の世代、新入社員達がやってくるよ! 的シチェーションです。
すると、少し別の解釈が見えてきます。
彼・彼女らが「アイドル」を目指し始める頃には、既に「前の世代」のμ's(ミューズ)が敷いた「スクールアイドルシステム」が目の前に出来上がってしまっているのです。
『ラブライブ!サンシャイン!!』のPVが既に公開されておりますが(リンク@YouTube)、冒頭の、「次の世代」の主人公の千歌さんがμ's(ミューズ)が映る画面を高く見上げる箇所。
「憧れ」がストレートな解釈ですが、反転すると、なんか「そびえ立ってる」印象も受けないでしょうか?
この、「そびえ立ってる」感じ。リアルの方の私達が経験した感覚として、心当たりがある人もいるのではないでしょうか。私達が何かを始めようとした時には、既に目の前には「前の世代」が敷いた「システム」が横たわっていた。みたいな?
こう前置くと、劇場版ラスト付近のこのシーンに、ちょっと「違和」が湧き始めます。↓

(『ラブライブ! The School Idol Movie』より引用)
(解説:ものすごくざっくりとは、「システム」を敷いた「神」になったμ's(ミューズ)を崇める「次の世代」の女の子達……というシーン)
このシーンの「次の世代」の女の子達に重なるのが『ラブライブ!サンシャイン!!』の主人公たち、Aqours(アクア)のメンバー達という位置づけになると思うのですが。
この「違和」を感じられるかどうかは、だいぶ「人それぞれ」となると思いますが、もしあなたが感じてしまう側だったとしたら、その「違和」は冒頭の「光る棒問題」と少し関係があるんじゃないか。このブログ記事では、そんな話がもう少しだけ続きます。
もし、「光る棒問題」にまつわる「違和」、ステージの上と下との「非対称性」を私達が、心の奥ではどこかで、解消したいと思っているのだとしたら、『ラブライブ!サンシャイン!!』は、ある意味冒頭では見上げるだけだった神としてのμ's(ミューズ)を「新しい世代」が殺していく。そこまで物騒じゃなくとも、「違う道を行く」物語として設計されていて、視聴者たる私たちは、そんな物語に再び共鳴していくんじゃないかなんて思ってしまったりです。
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ここで話はアニメの話からちょっとだけリアルに。
リアルの方で「システム」を敷いているアイドルというと、やはりAKB48が思い出されます。
先日もAKB48総選挙で指原莉乃さんが頂点に立ちましたが、じゃあ、そのトップオブトップアイドルの指原さんに憧れる女の子達は、指原さんのファッションを真似したり、指原さんがセンターの歌をカラオケで歌ったり、(一部のディープファンのように)指原さんグッズを身に纏ったりするだけで、これからの時代イイのかな?
こう、つい問いかけてしまいたくなる心情は、上記の「違和」とだいぶ近いものです。
AKB48だと、トップの人達はまさに「神セブン」と呼ばれたりしていたわけですが、その神達に「違和」を抱いてしまったとしたら、AKB48「システム」の中に入って、総選挙で競争して勝つしかないのかな? 世界はこんなに広いのに? そんな「違和」です。
こういう気持ち・衝動は、まさに「物語論」におけるいわゆる「神殺し」的な要素と関係すると思ったので、前述した「μ's(ミューズ)は神になったエンド説」の話とも絡めてこのブログ記事は「殺す」と物騒なワードを記事タイトルに付けさせて頂きました。(あんまり煽情性を出そうという意図はないのです。)
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ここで話はリアルの話から再びアニメの話へ。
この2016年4月から始まったアイドルものアニメーション作品に『アイカツスターズ!(公式サイト)』という作品がありまして、ちょうど、最近のエピソードはこの「システムと個人のジレンマ」を扱ってるんじゃないかという話を、別記事で書かせて頂いたところでした。↓
●参考:ラスボス白鳥ひめ〜『アイカツスターズ!』第11話「密着!白鳥ひめの一日」の感想(ネタバレ注意)
これらから見てとれるのは、『ラブライブ!』の「スクールアイドルシステム」にしろ『アイカツ』の「アイカツシステム」にしろ、「システム」は確かにありがたいという話です。基本、それにのっていれば安全(なはず)なので。
なのだけど、その「システム」に絡め取られてしまうと、今度は「個」が、「自由」が、抑圧され始める。そのジレンマのドラマが、今、2016年という時期に「アイドル」という現象を通して改めて見えてくるという話です。
キャッチ―なので「アイドル」を題材に話をしておりますが、この「安全だと敷かれたシステムVSそのシステムに疑問を抱く『個』」という構図は、最近のリアル世間全般の様々な箇所に見られる気がします。
政治の世界なら、大多数の票を押さえている与党VSそれに反対の立場の人(個)達。
経済活動の世界なら、大企業(基本的に従業員として「システム」に属する)VS新しいライフスタイル(個人自由業・ノマド的方面)とか。
『仮面ライダー』なら(え)、大まかな脚本から商品を売っていくプロセスまで「システム」としてある程度完成された現行の「平成仮面ライダーシリーズ」VSAmazon・プライムで独占配信を開始した『仮面ライダーアマゾンズ(公式サイト)』とか。
目立つところだけピックアップしてるだけなので、あなたも、仕事場で、友人達との会合で、あるいは家族会議で、この「システムを維持・波及させよう派」の意見と、「『個』の尊重の度合いを上げる観点からそのシステムに懐疑を向ける派」の意見とが対立する場面には、近頃出くわしたりしているのではないかと思います。
もうこれは、時代の要請だと思います。
日本史・世界史をある程度勉強したことがある人には基本的な視点になっている通り、何らかのシステムが敷かれる→そのシステムに疑念を向けた勢力がシステムを壊す→また新たなシステムが作られる……というのは、延々と歴史が繰り返してきた類の流れです。
その上で、改めてこの2010年代後半というのは、そういった対立が目立ってきている時期なのか、という話です。
上述の「違和」を感じるタイプの人は、
「システム」―反「システム」
与党―反対の立場(の「個」)
大企業―個人
平成仮面ライダーシリーズ―仮面ライダーアマゾンズ
の図からすると、右側に近い感性・考え方の人かと思います。
なので、両者にはメリット・デメリットがあって一概にどちらが正しい・優れているとかは言い難いのは前提として踏まえた上で、このブログ記事の最後は、ちょっと右側の人よりの視点で締めさせて頂きます。
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再び再び、話はアニメの話からリアルの話へ。
宮城県気仙沼を拠点とする『SCK GIRLS(公式サイト)』というアイドルグループがあります。
SCK GIRLSさんに関しては、あくまでフィクション作品ですが、彼女たちを元ネタに位置づけた素晴らしい小説(著:五十嵐貴久氏)が出てるので、イントロダクションにはやはりこちらが良いかなと、ここで紹介させて頂きます。↓
●参考:当ブログの『気仙沼ミラクルガール』の感想(ネタバレ注意)
さて、今年3月の「ヤマカンナイトin仙台」というイベントで初めてパフォーマンスするところを実際に拝見させて頂きました。
地元仙台が舞台のリアルアイドル&アイドルアニメプロジェクトである『Wake Up, Girls!(ポータルサイト)』のカバー曲と、オリジナル曲と両方やってくれました。
カバー曲の「タチアガレ!」のパフォーマンスもすごく良かったのですが(僕もWUG!好きなので)、それ以上に、SCK GIRLSさんのオリジナル曲で歌って踊ってる時の方が、僕はカッコいいなと思いました。なんというか、とても「らしい」かつ「ふさわしい」、このアイドルさん達「自分自身だ」という、そんな真実性を感じた気がしました。
さてこの話。
ここから感じたのは、上記の図の右側のポジション的な「違和」を感じやすい人が「システム」から離脱して自己重要感を回復するために必要なこと、そこまで大袈裟な話まではいかなくとも「システム」と折り合いをつけながら、「日常」を楽しんで生きていくために必要なことは、
どこかでフォロワーであることをやめて自分自身の歌を歌い始めるということ。
なのかなと感じたという話です。「歌う」というのはもちろん比喩的な意味です。
おそらく、冒頭の「光る棒問題」に対する処方箋もこれです。
SCK GIRLSのメンバーさん達もそれぞれリスペクトしている・フォローしているアイドルの方たちがいることを折りに触れてあげておられますし、カバー曲も歌うのですが、どこかで、自分自身の、「オリジナルの」歌を歌い始めるということです。そこに「輝き」のようなものが宿る。
SCK GIRLSさんがAKB48システムの頂点に立つということはないと思うのですが(メンバーさんでそっちの方向を目指している方がいたらすいません:加えて、元メンバーさんで現在は「システム」な方面のグループにいらっしゃる方がいるのも承知しております)、それでも、(歌やダンスの)技術のような形式的な指標はちょっと横に置いてみれば、気仙沼を起点に活動する彼女たちの「固有の(オリジナルの)」「物語」は、何らAKB48「システム」の上部に負けていません。というか比べる類の事項では、最早なくなっています。
では、最後の最後に、SCK GIRLSさんのような既にアイドルとして檀上に立っている人たちでさえ、「システム」のフォロワーであることから離れて「自分自身の歌を歌い始める」現在、そんなフォロワー(アイドル)のさらなるフォロワーである私達ただのアイドルオタクにとって、「自分自身の(オリジナルの)歌を歌い始める」というのは、どういうことなのでしょうか。
それは、本当にマイソングの作詞や作曲を始めることかもしれませんし、絵を描くことかもしれませんし、ミニ四駆を作ることかもしれませんし、そういった芸術・ホビー方面に限らず、(なんだか自分としてはしっくりときている)営業の仕事をもっと頑張る、トイレ掃除をする(リアルにトイレ掃除を自分の本懐としてビジネスにされてるという方もいたりします)、ということかもしれません。何が「自分自身の歌」にあたるかは、その人に寄ります。
そうやって一人一人が「自分自身の歌」を歌い始めて、「光る棒問題」にまつわる「違和」が解消され始めてしまうということは、ある意味、安全・安定を脅かしてしまうことなのかもしれないのですが。
同時に、「違和」・「非対称」を「あるべき形」に戻していこう、歪んでしまっていた部分はほぐしていこう、そんな動力の胎動なようなものも個人的には感じることが最近多くなりました。
用意された色から選ぶだけじゃなく、無限の選択肢(=可能性)から選び、悩み、自分で描く、ということが「本来なら」できる。世界自体は実はそうなっているはずなのに。それが、限定された色の棒を振るように(選択肢が限られているように)「システムの方から」求められている、そう思い込まされているだけだった。そろそろ、そんな「共同幻想」から人々が覚め始める。そんな、SF作品チックな展開が、リアルの方でも起こってくるのかも? しれません。
2010年代後半戦。財政・復興・超少子高齢化・etc、様々な問題を抱えながら、アイドル達もオタク達もおじいさん・おばあさん達も子供達も、etcも、みんな共に、時代はまた次のフェーズへ。そんな中で、あなたには処方箋(=拠り所)としての「自分の歌」がありますか? あるとしたら、歌いますか? 今歌えていないとしたら、歌える場所に少しずつ移動する方向で準備を始めますか?
あるいはあなたの子供、親、パートナー、友達などなど、そういった大事な人が「歌いたい」と言い出したら、それを赦せますか? 「応援するよ!」って言ってあげられますか?
アイドルが大好きな私達が、「日常」のある瞬間にフと我に返るように陥る感覚。
この場合の「我」が、「本来の自分自身らしい」という意味になっていく方向で共に歩んで行けたなら、ちょっとだけ「幸せ」とか「喜び」とか多めの未来に、行けるのかもしれません。
【関連リンク1:関係作品の当ブログの感想】
→『ラブライブ!』感想の目次へ
→『Wake Up, Girls!』感想の目次へ
→『アイドルマスターシンデレラガールズ』感想の目次へ
【関連リンク2:管理人のKindle電子書籍】
→(東日本大震災後の「アイドル」のようなある意味「余剰な」文化的活動についての話を少し掲載)