ネタバレ注意です。
第3話(感想)から出てきてるキーワード「信じる」。
「だがね、信じてほしいんだ。同じ人として」(薬師和尚)
剣之介が現代人の皆さんを信じ、現代人の皆さんも剣之介を信じる……という第3話からのプロセス。ついに今話にて、現代人の皆さんが剣之介に帯刀を許し、チョーカーを外すところまで至る。
ここまで「信じる」ことができるようになったのは「当事者性」を共有したからということで、前回の「サムライとは?=当事者性?」という部分とも重なってくる感じ。
一緒に同じ場を「当事者」として共有して過ごす中で「信じる」ということは生まれてくる。ちょっと心理的に距離があったソフィーと由希奈でさえ、この合宿で同じ場を共有してる(同じ部屋!?)うちにちょっと距離が縮まった感じになってるのも微笑ましい。あと、ソフィーと剣之介の方もね。フスナーニの件の時は剣之介を疑うことに合理性はある、と「窓越し」に剣之介を見てソフィー言ってたんだけど、今話では剣之介が由希奈に抱き始めてる感情に敏感に気付く、というカットが入っております。
剣之介と由希奈の間で「信じる」が成立し始めてるのは前回「フスナーニを殺す」というイベントを「当事者」として共有したということも大きいのですが。そういえば、第3話で剣之介と現代人の皆さんで「信じる」が成立し始めたのも、「小春を助ける」というイベントを「当事者」として共有したのが大きいって描かれ方だったのだと今なら思えます。
場の「当事者」であることと、前回のフスナーニの「窓越し(当事者意識が薄くなる)の銃撃」がいわば対照なのですが、今回、コスプレする美夏を通して、「当事者でないこと」の別の側面も描いてきているのは、今後の鍵になってきそう。
これまでは教室という場を共有して「当事者」同士だった同級生が、夏休みという非日常に入り、スマートフォンという画面越しに、違う見え方で見える(コスプレしてるからw)。この「スマートフォンの画面越し」という要素はどちらかというと前回の「窓越し」という要素側なのですが、あんまりネガティブなニュアンスは感じない印象です。
思うに、こっちは画面越しに見ている相手(当事者同士ではない)というのは、本当の見え方じゃないかもしれないという風刺のような箇所なのかなと。由希奈や視聴者は美夏のホントウの姿を知っていますが、その他の画面越しに見てる人たちにとっては、コスプレしてる姿しか分かりません。もし「当事者性」を共有できればまたちがったホントウの見え方が見えてくるかもしれないのに、画面越しの見え方のみで、(ポジティブにしろネガティブにしろ)評価を下し、裁き、「すれ違って」いく。
これをエフィドルグ側に当てはめると、あの、今は通信越しにしかその本来の姿がわからない状態ということで、画面越しのコスプレしてる美夏を見てるようなもの、つまり、あの仮面かぶってるのはコスプレしてるみたいな(え)意味なのかなと。通信越しにコスプレ姿だけ見てお互いに「すれ違い」状態で撃ち合ってるよりも、「当事者性」を共有してみれば、また違う姿が見えてくるのかもしれない。
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【関連リンク:当ブログの2015年アニメーション作品ベスト10記事】
→2015年アニメーション作品ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)