本作品(原作漫画版含む)に加え、同京都アニメーション制作作品のうち、『涼宮ハルヒの憂鬱』・『けいおん!(!!)』・『たまこまーけっと』&『たまこラブストーリー』・『甘城ブリリアントパーク』・『響け!ユーフォニアム』のネタバレが本記事中には含まれます点をご注意ください。
西宮硝子が髪をポニーテールにまとめて石田将也に「好き(スキ)」と告白するも、将也は「月(ツキ)」と受け取って、二人の気持ちはすれ違う。そして、そのすれ違いは特に解消されないまま終劇するという本作。
これは、同京都アニメーション制作作品の金字塔、『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ハルヒが髪をポニーテールにまとめて、キョンの「白雪姫のキス」へのアンサーを返す。二人の気持ちが僅かに触れ合った瞬間を切り取って終劇したのとは対照的です。
しかしそれでも、『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストでハルヒの「憂鬱」が少しだけ晴れているのと同様に、本作でも、ラストで硝子は少しだけそれまでよりも生きやすくなっています。
本作が新たに書き加えた、すれ違ったままでも生きていける/生きていこう……という地平とはどういうものなのか。
折しも今年はアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』十周年です。あるテーマが継承され続けているこの十年の京都アニメーション作品群の中でも、「ポニーテール」の記号と、「特別」というキーワードに注目しながら、本記事では映画『聲の形』で切り取っている、2016年版の、この生きるのが苦しい現実でも生きていくということ、について紐解いてみたいと思います。
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前提として、長年の当ブログの解釈の通り、京都アニメーション制作の作品にはいくつか作品をまたいで受け継がれ・進展しているテーマのようなものがあります。
それは「日常の輝きを取り戻す」というようなものです。
「取り戻す」と言うからには、何もしないままだと現在の社会は色あせている、生きていくのが苦しい、という認識があります。日本は先進国と言われているはずなのに、虚無感はつのり自殺者は年間3万人とかで、我々の生きている日常は充足感とか輝きとか幸せとかが見つけづらくなってしまっている。
その「色あせた」という感覚を切り取っているのが、それ以降の全ての京都アニメーション作品の起点に位置するのではと言っても過言でないような、『涼宮ハルヒの憂鬱』の、幼少期にハルヒが野球場で、絶望・孤独・自分自身の無価値感を感じてしまうというシーンです。
アニメ版と原作小説版では少し表現が異なりますが、谷川流氏の原作小説『涼宮ハルヒの憂鬱』の該当シーンの筆致が、ゼロ年代小説史に残る不朽の名文という勢いなので、自分でも何度写経(え)したか分からないという文章ですが、以下に引用しておきます。ハルヒというキャラクターの起点。ハルヒが自分には価値がないと気付いてしまった、幼少時の記憶の記述です。
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「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
何を言い出すんだ。
「あたしはある。忘れもしない」
線路沿いの県道、そのまた歩道の上で、ハルヒは語り始めた。
「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないかと思った。でね、親父に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。それを見て、あたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばその一部に過ぎないんだって。家に帰って電卓で計算してみたの。日本の人口が一億数千ってのは社会の時間に習っていたから、それを五万で割ってみると、たった二千分の一。あたしはまた愕然とした。あたしなんてあの球場にいた人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思ってるクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送ってる人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。考えていたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」
まるで弁論大会の出場者みたいにハルヒは一気にまくしたて、喋り終えると喋ったことを後悔するような表情になって天を仰いだ。
(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』より引用)
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ゼロ年代に出現した、普遍の名文ですね。
このハルヒの「色あせた」世界が、ラストにキョンからの「白雪姫のキス」で、ハルヒは(少なくともキョンにとっての)「特別」になって、少しだけ払拭されるというのが『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストですが。
この十年で、その後の膨大な『ハルヒ』文脈を(テーマ的に)発展させていった京都アニメーション制作の作品群を観てくると、この2006年時点では、ちょっと問題の解決を「男女間の愛」のようなものに求めすぎてるかな、とも感じます。(原作小説の『ハルヒ』シリーズはその後も続き、テーマ的にも進んで、徐々にハルヒも変わってくるのですが、この『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品時点では、という話です。)
一方、上記引用部分の「クラスの出来事」がありふれたものに感じられてしまった、色あせたものに感じられるようになってしまったという部分に関して。そうじゃないだろ。クラスの出来事。普通の出来事。そういう「日常」の中にも、色あせてない「輝き」は見つけられるはずだよ! と描いたのが、『ハルヒ』の後続の京都アニメーション作品であり、当映画『聲の形』の山田尚子監督・吉田玲子脚本コンビで制作されたゼロ年代後半のアニメーション作品の金字塔、『けいおん!(!!)』という作品でした。
実際、何ら非日常的なことが起こるわけでもない。彼女たちが武道館に行くような成功をおさめることはない。それでも、澪が花火をバックにエアギターする唯(「日常」の中の一幕)に「輝き」を見つける瞬間をアニメーション表現で切り取った『けいおん!』第4話「合宿!」のあのシーンは日本アニメーション史に残る名シーンだと思います。
そういう流れを踏まえた上で、映画『聲の形』を観てみると、西宮硝子は疑似ハルヒのごとく「生きづらさ」を感じているヒロインですが、彼女は『ハルヒ』のように「白雪姫のキス」でも救われないし(告白はすれ違ってしまう)、『けいおん!(!!)』のように「日常」の中でも救われない(「学校のクラス」ではイジめられてしまう)という造形のキャラクターであるということが見えてきます。
彼女のような人間でも、少しだけこの世界で「生きやすさ」を感じられるようになれるとしたら、それはどういうことなのか。その地点に向かって、この十年で制作され、リリースされた京都アニメーション作品の中から、本作と縁が深い五つの作品をピックアップして追いながら、最終的に『ハルヒ』から『聲の形』までを繋いで、「日常の輝きを取り戻す」というテーマについての、2016年時点での風景を描き出してみたいと思います。
1.『涼宮ハルヒの憂鬱』と映画『聲の形』のテーマ的な関係
(公式サイト)
(画像は『涼宮ハルヒの憂鬱』京アニサイトより引用)
最近話題の作品だと、『シン・ゴジラ』に同庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』シリーズの同系表現、広義のセルフオマージュが見られるという点まではみんなそんなに異論がないように(その表現の解釈の仕方は別れるとしても)、クリエイターのごく自然な表現技法として、作品をまたいで同系表現に記号的な意味をもたせるというものがあります。
その観点からすると、京都アニメーション作品は、「ポニーテール」の表現に『ハルヒ』という作品の文脈、特に「特別」というテーマに関する記号的な意味を持たせていたりします。
本作における硝子の告白シーンは原作漫画でもポニーテールなので、たまたま原作に選んだ作品にそういうシーンがあったので文脈に乗るような形で使ったのか、そもそもそういうシーンがあったというのがこの原作を選んだ理由の一つなのかは分かりませんが、少なくとも、映画『聲の形』における硝子のポニーテールのシーンも、『ハルヒ』のポニーテール(=「特別」にまつわるテーマ)に関係づけて解釈が可能になっています。
そもそも、特に原作漫画だと、幼少期の将也が「退屈」という問題を抱えているのが強調されており、これは『ハルヒ』における、物語冒頭時点のキョンの問題と重なります。
この現実世界では「非日常」的高揚などありはしないと「現実」に諦観しかけていたキョンの主観ショットで、世界が灰色に観えている……というアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭のくだりです。
そんなキョンの灰色の視界が、ハルヒと出会った瞬間に色彩を帯びたものに変わる……という有名な演出が成されているのですが、これはもちろん、『涼宮ハルヒの憂鬱』の中ではカタルシスがある、これから始まる物語へのワクワクが感じられるニュアンスのシーンです。
(画像は『涼宮ハルヒの憂鬱』より引用)
ところが、映画『聲の形』では、「退屈」という問題を抱えていた小学生時代の将也が、硝子と出会うことでその「退屈」が払拭される……という構造はとても上述の『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭と似ているのですが、こちらは必ずしもすぐにワクワクするというような、ストレートに明るい未来に繋がっていくニュアンスとしては描かれません。小学生時代の将也が硝子に見つけた「特別」は、主には硝子が聴覚障害であるという点に由来していて、二人の関係及びクラスという場は「イジメ」という方向に向かって行ってしまうからです。結果としては、「SOS団」に該当する共同体が結成されて、その共同体の補助を受けながら硝子も将也も救われるなんていうことはなく、逆に小学生時代のクラス共同体は、崩壊に帰結してしまいます。
いわば、映画『聲の形』序盤の小学生時代のくだりというのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭のバッドエンドヴァージョンのような位置づけになっているということです。
映画『聲の形』が『涼宮ハルヒの憂鬱』のバッドエンドヴァージョンを含んでいるというのは二重になっていて、もう一つのバッドエンドが、上述した硝子の告白のシーンです。
ここで、将也が、キョンのように「俺にとって、硝子はただのクラスメイトじゃない」とばかりに、硝子に対して、将也の恋愛のパートナーという意味合いでの「特別」を付与してくれたら、いわば「西宮硝子の憂鬱(生きづらさ)」もその時点で晴れたのかもしれないのですが、この告白は、硝子の「好き(スキ)」という言葉を、将也は「月(ツキ)」と受け取ってしまい、二人の気持ちはすれ違ってしまいます。そして、このすれ違いは、(告白の成就という意味では)映画が終劇するまで解消されません。
映画『聲の形』という作品は、
・石田将也が聴覚障害という(いわばバッドエンドヴァージョンの)「特別」を西宮硝子に付与してしまう
・石田将也は、上記を払拭できるかもしれない恋愛の意味での「特別」を西宮硝子に付与することもできない
という二重の意味で、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品のバッドエンドヴァージョンを内包していると言えるのです。
次項。ある種の「タメ」として、もう少しバッドエンド的な話が続きます。
2.『けいおん!(!!)』と映画『聲の形』のテーマ的な関係
(公式サイト)
(画像は京都アニメーション公式サイトより引用)
幼少期のハルヒが、「あたしが世界で一番楽しいと思ってるクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。」と絶望してしまった「ありふれた日常」に対して。そんなことはない。「日常」の中にも「輝き」、大袈裟に言えば「生きている意味」は見つけられるはずだとばかりに、「日常」の中の輝いた時間を切り取った作品が、同山田尚子監督・吉田玲子シリーズ構成コンビで送られた『けいおん!(!!)』という作品でした。
『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるハルヒが抱えている「憂鬱」、映画『聲の形』における硝子が抱えている「生きづらさ」ほど深刻なニュアンスは劇中で描かれませんが、物語冒頭では将来や自分自身について不安を感じていた唯が、最終回(一期)ではその不安が払しょくされ、自分に「心配しなくていいよ。」と言ってあげられるまでが描かれています。
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(画像は『けいおん!』より引用)
そういえば入学式の時もこの道を走った。
何かしなきゃって思いながら。
何をすればいいんだろって思いながら。
このまま大人になっちゃうのかなって思いながら。
ねえ私。あの頃の私。心配しなくていいよ。
すぐ見つかるから。私にもできることが。
夢中になれることが。
大切な。大切な。大切な場所が。
(『けいおん!』第12話より引用)
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このシーンで唯が救われているのは、「仲間という居場所(共同体)=澪、律、紬、梓たち」の存在、唯はそれを手に入れることができた、というのが大きいのですが。
ここで、映画『聲の形』に戻ってみると、『けいおん!(!!)』で唯が救いとして辿り着いた「仲間という居場所(共同体)」すら、硝子は失ってしまう。むしろ、自分のせいで崩壊させてしまうという、こちらもいわば、映画『聲の形』という作品は『けいおん!(!!)』という作品のバッドエンドヴァージョンのような位置づけの段階も、劇中に含んでいるというのが見えてきます。
映画『聲の形』の中で、疑似『けいおん!(!!)』的な、「仲間との楽しい時間」が(表面的に)描かれているのは高校生になってから再会した小学生時代の級友たちと一緒に遊園地に行くシーンですが。ここでも、その「仲間との楽しい時間」が嘘っぱちであったことが「チラ見せ」される、仕掛けられた爆弾的なシーンが含まれています。将也が、旧友の島田一旗と再会するシーンです。「楽しい時間」に突如として挿入される「違和」。「仲間との楽しい時間」っておまえ、「イジメ」とかあったよね? と突きつけてきている部分です。
いわば、『けいおん!(!!)』で描いていたのって、「イジメ」みたいなそういうのを「なかったこと」にしていた嘘っぱちの世界だったよね? と言ってるようなもので、山田尚子監督にしろ脚本の吉田玲子さんにしろ、金字塔になった自作にそういう容赦ない批評的な視点を加えちゃうんだ!? と、個人的にはスリリングに感じた部分です。実際、『けいおん!(!!)』という作品で救われた人はたくさんいたと思いますが、2016年になった現在「イジメ」は引き続きありますし、自殺者数もここ数年は減っているものの、大きく改善されたとは言えない状況です。
(画像は「内閣府/平成27年版自殺対策白書 概要(HTML形式)」より引用)
「日常の輝きを取り戻す」というテーマにあたって、何か「次」が必要であり、その「次」のために『けいおん!(!!)』で壊しておく部分は壊して、再構築していく。そんな意志が作り手側にもあるのかもしれません。映画『聲の形』の物語の展開でも、一度は上手くいったかに見えた「楽しい仲間たちとの共同体(遊園地に一緒に行ったメンバー達)」が、橋のシーンにて一旦崩壊してしまうという展開になります。
映画『聲の形』が『けいおん!(!!)』を破壊している、この作品自体に『けいおん!(!!)』という作品のバッドエンドヴァージョンを含ませている点も二重になっていて、もう一つは、硝子が投身自殺をはかってしまうまでの流れです。
これ、硝子が投身自殺をはかるのは、「花火」の日なんですね。「花火」は、『けいおん!(!!)』で「日常の中にも見つけられる輝き」の象徴として使われていたアイテムです。
繰り返しになりますが、唯たちが武道館に行くような競争社会を勝ち抜くバンドになることはないのだけど、ありふれた日常の一瞬に、「輝き=生きている意味」のようなものを見つけられる、と描いた、澪が花火をバックにエアギターする唯の姿(「日常」の中の一幕)にある種の真実性を見つける瞬間をアニメーション表現で切り取っていた『けいおん!』第4話「合宿!」のあのシーンは美しいです。日本アニメーション史に残る名シーンであることに変わりはないと思います。
(画像は『けいおん!』より引用)
しかし、映画『聲の形』では、同じ「花火」の日に、西宮硝子は投身自殺をはかってしまうのです。硝子は、「花火」に「日常の輝き」も「生きる意味」も見つけることはできなかったのです。
ここも、『けいおん!(!!)』で唯たちが「輝いて」いた一方で、教室のどこかに、死にたい気持ちでいた人もいたんだよね、というようなシーンで。本当、山田尚子監督にしろ脚本の吉田玲子さんにしろ、自作に対して容赦ないなと。
また、投身自殺をはかるほど追いつめられていた硝子の気持ちに気づけなかった将也よろしく(直前まで硝子は表面的には笑顔でいる)、『けいおん!(!!)』で「花火」的な「輝き」だけを追っていた我々視聴者も、そこから取りこぼされている立場の人の気持ちは想像できていなかったんだろうなと突きつけてきているようでもあって、中々に厳しい展開の箇所です。
映画『聲の形』という作品は、
・西宮硝子は『けいおん!(!!)』の軽音楽部のような「仲間という居場所(共同体)」を見つけられなかった・自分のせいで壊してしまった
・西宮硝子は、『けいおん!(!!)』で「花火」に象徴されるような「日常の輝き」を世界に見つけることはできなかった
という二重の意味で、『けいおん!(!!)』という作品のバッドエンドヴァージョンを内包しているとも言えるのです。
3.『たまこまーけっと』と映画『聲の形』のテーマ的な関係
(公式サイト)
(画像は京都アニメーション公式サイトより引用)
ここから、少しずつ、本当に少しずつ、西宮硝子でも「生きやすい」世界があり得るなら? という方向に向かっていきます。
『たまこまーけっと』という作品に関しては、丁稚さんという方が書いてる「ねざめ堂」というブログに、僕が知る限り日本語で書かれたテキストとして最高の「『たまこまーけっと』を振り返る」というシリーズが掲載されていますので、今まで知らなかったという方は、これを機会に是非読んでみて頂きたいと思います。↓
●『たまこまーけっと』を振り返る/ねざめ堂
最初から読む方はこちらの「序論」から。↓
●『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」/ねざめ堂
僕の『たまこまーけっと』に関する解釈の大部分は上記の「ねざめ堂」さんの記事によりますが、『けいおん!(!!)』・映画『聲の形』と同じ山田尚子監督・吉田玲子さん脚本(シリーズ構成)の作品なのですが、「日常」がテーマの作品をやるとしても、東日本大震災後にもう『けいおん!(!!)』はできなかったという意味合いを強く感じる作品です。
京都アニメーション制作の作品を追うのとは(併走しつつも)別系統として、吉田玲子さんが脚本(シリーズ構成)の作品を個人的にずっと追っているのですが、震災後に、描く物語の「焦点」のようなものが一つ変わっているのをずっと感じており、多くのクリエイター達にとってそうであったように、吉田玲子さんにとっても東日本大震災は大きい出来事だったのではないかと想像しております。
震災後の『たまこまーけっと』という作品で加わっている視点は、「『日常』は無条件では成り立たない」という視点です。
『たまこまーけっと』では『けいおん!(!!)』の軽音楽部共同体のような、「楽しい日常」として「うさぎ山商店街」という商店街共同体が描かれるのですが、その商店街共同体は無条件で成立しているわけではなく、主人公のたまこが意識的に維持に努めている……という視点が加わっています。
最終回でたまこが思い出してしまう、母親が亡くなった日に商店街のシャッターが閉じている風景は、「日常は壊れ得る」ということをたまこが知っているというシーンであり、現実の東日本大震災当時の、営業できなくなったお店の風景も連想されるようになっており、震災で壊れた「日常」を比喩的に表現している箇所なのは明らかだと思うのですが。
『たまこまーけっと』のたまこという主人公は、そのように「日常は壊れ得る」ということを知っているゆえに、自分の本当の気持ちを明らかにしないという代償を払いながら、「日常」の維持に努めている……というキャラクターです。
たとえば第1話で、母親の死についてたまこは「もう大丈夫だから」と明るく笑っていますが、最終回でシャッターが降りた商店街を見て、やはり心を乱してしまいます。彼女はまだ母の死からちゃんとした形では立ち直っておらず、その彼女が抱えてる「痛み」が他のキャラクター(や視聴者)にむけて、あからさまに告白されることもありません。これは、孤独ということです。『たまこまーけっと』は『けいおん!(!!)』のような無条件の「日常」を描く物語から進んで、「日常」を維持するために、孤独に耐えている人間もいる、という部分をも切り取っている物語なのです。彼女が「母親の死」にまつわる本当の気持ちを告白し始めたら、「楽しい日常」は壊れてしまうから。彼女は、本当の気持ちを表に出すことはないのです。
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「みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもないぐらいの時もあると思うんですけどね、それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて」
(山田尚子監督インタビュー 『Cut』2013年2月号より引用)
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この、
・「日常」=「楽しい共同体」の維持のために、一人自分の本心を明らかにしないでいる
・表面的には笑顔でいる
というヒロインの造形が、『たまこまーけっと』のたまこと、映画『聲の形』の西宮硝子とで、とても重なります。
硝子も、自分の本心を明らかにしてしまったら、「日常」=「楽しい共同体」は壊れてしまうから、自分の本心を明らかにはしないですし、表面的にはいつも笑顔でいるのです。投身自殺をはかってしまう、その直前まで。
映画『聲の形』の広報では、西宮硝子というキャラクターの説明として「コミュニケーションの困難や失敗を日常的に経験してきたせいで、他人との摩擦を避けるため、愛想笑いがくせになっている」というのがわざわざ強調されていますから、この部分がこのキャラクターの根幹に近いのが伺えるかと思います。
それゆえに、『たまこまーけっと』のたまこが孤独から救われるくだりが、映画『聲の形』で硝子が救われるための処方箋になり得るのですが……。
『たまこまーけっと』のたまこが救われる、孤独が解消される、自分の本当の気持ちを明らかにすることができる……ところまで辿り着くのは、実は続編の映画『たまこラブストーリー』まで待たないとなりません。
(公式サイト)
(画像は京都アニメーション公式サイトより引用)
『たまこラブストーリー』では共同体(商店街)が新しい形に進んでいくのを受けて、たまこ自身も変化し、ラストシーンでもち蔵に対して、ついに自分の本当の気持ちを告白します。
『たまこラブストーリー』を観た方はもう一度ラストシーンを良く観て頂きたいのですが、ラストでたまこがもち蔵に伝えている言葉は、表面的にはもち蔵の告白へのアンサーという形になっていながら、深層では、全部、ずっと伝えたかった亡くなってしまった母親に対する自分の気持ち(どうして遠くへ行ってしまうのか、とか)……という風になっています。
この、ずっと表に出すことができなかったたまこの気持ちを、もち蔵が受け取ったところで『たまこまーけっと』〜『たまこラブストーリー』は終劇。泣いているのはもち蔵ですが、救われているのはたまこです。
というように、西宮硝子が救われ得る処方箋は、既に『たまこラブストーリー』で見えているのですが、映画『聲の形』はもう一歩一筋縄ではいかず、将也は硝子の本当の気持ちを受け取り損ねてしまう……というのが描かれます。
なんだかんだ言って、たまこももち蔵もすごいヤツだったのですよ。だけど、硝子や将也は、今を生きる我々は、そんなたまこやもち蔵ほどの人間(=物語上のメインキャラクター)にもなれない。
映画『聲の形』は、『たまこラブストーリー』からさらに進んで、北白川たまこにすらなれなかった西宮硝子がそれでもこの世界で生きていくために、いよいよ2016年なりの風景に進んでいきます。
4.『響け!ユーフォニアム』と映画『聲の形』のテーマ的な関係
(公式サイト)
(画像は京都アニメーション公式サイトより引用)
前項の、西宮硝子は北白川たまこになれない、という話。これはたとえばメインキャラクター(のポジション)になれない、「特別」になれない、という話に繋がりますが、そういった「特別」にまつわる話を、「ポニーテール」の記号と『ハルヒ』文脈に乗せて最新版として描いたのが、『響け!ユーフォニアム』という作品でした。
昨年2015年の作品ですので、作品がリリースされた時期的にも、ここまで追ってきた京都アニメーション作品一連の『ハルヒ』文脈のテーマ的な部分でも、いよいよ2016年の最新作、映画『聲の形』に近づいてきます。
映画『聲の形』と同じ山田尚子監督・吉田玲子さん脚本(シリーズ構成)コンビの作品だった『けいおん!(!!)』・『たまこまーけっと』&『たまこラブストーリー』に映画『聲の形』の原形や繋がるものを見つけられるのはともかく、石原立也監督の本作が、(テーマ的に)映画『聲の形』に繋がるのは本当か? と思う方もおられるかもしれませんが、『響け!ユーフォニアム』は石原立也氏が監督を務められてるのに加えて、山田尚子さんがシリーズ演出というポジションについている作品です。石原立也監督こそが『涼宮ハルヒの憂鬱』の監督ですので、むしろ『ハルヒ』文脈と『けいおん!(!!)』文脈が、石原立也&山田尚子コンビで合流している作品とも捉えられそうで、まさに本記事に核心的にかかわる作品です。
『響け!ユーフォニアム』が『ハルヒ』文脈の作品であるという点に関しては、個人ブログの記事としては5000ユニークアクセス超えと中々広範囲に読んで頂けた、当ブログの去年のベスト記事の、こちらを参照して頂けたら幸いです。↓
参考:響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
(画像は『涼宮ハルヒの憂鬱』・『響け!ユーフォニアム』より引用)
また、ここからさらに映画『聲の形』まで『ハルヒ』文脈で導線が引けるというのは、映画『聲の形』のプロモーションのいくつかで、硝子の「ポニーテール」の絵が印象的に使われている点からも伺えると思います。
(雑誌ニュータイプ表紙の、「ポニーテール」西宮硝子)
では、『響け!ユーフォニアム』で描かれている『ハルヒ』文脈とは何なのかと言えば。ハルヒはラストにキョンから「白雪姫のキス」で「特別」性を付与されて、ある種の「特別」に至るのですが、この作品の段階になると、むしろそういうストレートな意味では「特別」になれない側、「ハルヒ」にはなれない側の人間に焦点が当たるようになります。
まず、『響け!ユーフォニアム』で本当の意味で「ハルヒ」的な「特別」に到達できるまでに勝ち抜けそうなのは、高坂麗奈だけです。
当初からその他大勢(『ハルヒ』で言うなら幼少期の野球場の残り四万九九九九人)に埋没するのを忌避して「特別」を志向している、勝負所で「ポニーテール」になる……などがハルヒと重ねて描かれますが、麗奈は実際にその他大勢に埋没しないトランペットの腕と才能を持ち、勝負所で「ポニーテール」でアピールしても、ちゃんと相手(ただし本作では相手が同性の久美子になっている点については「ねざめ堂」さんのこちらの記事を参照→:前編/後編)に気持ちが伝わります。
しかし、この作品で描かれるコアの部分は、むしろ我々一般人は、ハルヒや麗奈のような「特別」な存在にはなれない、という部分です。勝ち抜けないし、勝負所でアピールしても意中の人との関係性は成就しない。そういった側。
競争に敗北して一旦檀上から降りることになった久美子は、ハルヒ的、麗奈的な意味での「特別」にはなれないことを悟り、「ユーフォニアムが好き」という気持ちと再契約して、自分なりの「特別」を見つけ直すというプロセスが必要になりますし(第12話)。
そんな久美子に恋愛面で敗北する、いわば告白が成就しなかった「ハルヒ」側として、恋愛関係でも「特別」になれない側として葉月が描かれ、彼女が彼女なりの「輝き」を見つけるのは、特別編の「かけだすモナカ(感想)」を待たなくてはなりません。
夏紀先輩にいたっては、ハルヒ的、麗奈的な意味では「特別」になれない久美子にも及ばず、久美子にすらパート争いで敗北してしまうというポジションのキャラクターです。だけど、そんな夏紀先輩ですら「ポニーテール」の記号の有資格者であり、彼女なりの生きる意味(檀上に上がれないものなりの「特別」性)はある、そう描いたのが『響け!ユーフォニアム』という作品であるというのが、上記リンクの記事の大まかな趣旨です。
そうなると、映画『聲の形』の西宮硝子は、『響け!ユーフォニアム』だとどのポジションになるかというと、当然ハルヒ、麗奈クラスの「特別」には至れない。将也への告白もすれ違ってしまうので、恋愛面では勝利している久美子にも及ばない。
ということで、葉月、夏紀先輩辺りのポジションに近いということになります。ようは、なんらハルヒ的、麗奈的「特別」も得られない、恋愛強者にもなれない、その他大勢側、『ハルヒ』で言うなら、野球場の残り四万九九九九人側です。
そんな四万九九九九人側では「日常の輝き」も得られないし、生きてる意味も見いだせない、自殺してしまう……というのではあまりに悲しいから、ハルヒ化、麗奈化することができずとも、久美子化すらできないとしても(できる人はできて「輝き」を取り戻してくれてもちろん良いのですが)、それでも生きていくということを描く必要がある……京都アニメーション文脈(『ハルヒ』文脈)は、そこに向かっていくことになります。
『ハルヒ』から始まった京都アニメーションの「日常の輝きを取り戻す」文脈は、こうしてむしろ、「ハルヒ」にはなれない人に向けて……という方向に向かっていくのです。
5.『甘城ブリリアントパーク』と映画『聲の形』のテーマ的な関係
(公式サイト)
(画像は公式サイトより引用のワニピー)
映画『聲の形』に至る、「ハルヒ」文脈の京都アニメーション作品を巡る旅の最後の作品は、『響け!ユーフォニアム』よりも一つ前のTVシリーズ作品。2014年の『甘城ブリリアントパーク』という作品です。
監督は武本康弘氏ですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』・『けいおん!(!!)』でも絵コンテや演出を担当されていた方なので、『ハルヒ』文脈・『けいおん!(!!)』文脈が、この作品にも反映されていると捉えて、そんなにも間違いないかと思います。またシリーズ構成の志茂文彦氏も脚本として『涼宮ハルヒの憂鬱』に参加されていた方です。
この作品はいわば、「ハルヒ」にはなれない野球場の四万九九九九人側の人間もそれぞれに生きている大事な存在なんだということを描いていたという点で、『響け!ユーフォニアム』よりも少し先行している部分もあり、最終的に映画『聲の形』で西宮硝子が少しだけ生きやすくなる地点に向かうにあたって、経由しておくと話が分かりやすくなるのです。
『甘城ブリリアントパーク』終盤で描かれる「サッカー場」という舞台装置は、疑似『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが語った幼少時に訪れた「野球場」と重なる……という描き方をやっている作品です。スタジアムと、そこを埋め尽くす何万もの人間繋がりで。数字も「五万人」で『涼宮ハルヒの憂鬱』の「野球場」と『甘城ブリリアントパーク』の「サッカー場」とは重ねられております。果たして、そこに集まったハルヒ以外の「特別でない」四万九九九九人は無価値なのか?
『甘城ブリリアントパーク』は寂れたテーマパークを再建するお話で、いわば「集客」が物語の骨格なのですが、順調にカウンタが増えていっていた時は、数字が上がったやったやった、という感覚でしかなかったのが、タイムリミットまでラスト三時間でテーマパークの存続ラインまであと279人足りないと分かった時に、(視聴者も)ハっと気付くような描き方になっています。一人一人の人間が、もの凄く大切だったんだということに。
幼少時の野球場での絶望を、キョンからの他の誰でもないハルヒだから好きなんだ、君は「代替不可能な特別」なんだって「白雪姫のキス」で承認されて浄化されるまでが『ハルヒ』の物語でしたが、『甘城ブリリアントパーク』で描いていたのは、ハルヒは確かにキョンにとっての「特別」だった、だが、幼少時の野球場にいた、ハルヒ以外の「特別でない」四万九千九百九十九人も、それぞれに大切な存在だったんだよってことなのですね。無機的な数字に陥れられてしまう前の、一人一人の人間が持っている「輝き」を信じたい。一人一人の来場者が、ビッグデータに記録される数字の1じゃなくて、かけがえのない一人なんだよと。これを、「モブキャラまで可愛すぎる」で定評がある京都アニメーションクオリティで表現するという技法が炸裂しています。
最終局面の来訪者は全員が作画として丁寧に描かれているのも凄いのですが(例えば『けいおん!(!!)』の頃からモブキャラまで可愛すぎるで定評があった京都アニメーションなのですが、その定評を作品テーマを表現する方法に落とし込んでいる感じです)、最終局面でクローズアップされる人々が、ともすれば今の世の中で「生きづらさ」を感じてしまいそうな人々で、さらにグっときます。居酒屋店員のタカミちゃん。世情的に居酒屋のバイトさんとか特に東京とかだと外国人労働者が中心になってきていて、それこそ『甘城ブリリアントパーク』という作品でそういう感覚どうなの? って描いていた「代替可能な労働商品」に見られがちなこと、厳しいリアルでは確かにあると思うのです。だけど、そうじゃないんだって、タカミちゃんも一人の本懐をもった大切な一存在で、私たちが生きるのを助けてくれる存在なんだってメッセージを描きます。深い事情は分からないんだけど何故か来てくれるアーシェさんと縁ある人達、ミュースのお祖母ちゃんとか(どんな素性か分からないのが、逆にテーマに忠実になっている)、ワニピーが連れてきた何か酔ってる人たち……と続いていきます。
酔ってる人達とか、生きづらくて、逃避としてお酒を飲んでいたのかもしれません。それでも、そういう人達でも生きていて、時に生きていてくれることが、私たちの助けになってくれるんだというのを描いていたのがこの『甘城ブリリアントパーク』という作品なのです。
その、別に「特別」にはなれなかった「あなた」を肯定する視線は、ハルヒ、麗奈のような「特別」にはなれず、かといって久美子のように恋愛で勝ったり、好きなもの(ユーフォニアム)を見つけて没頭することで生きる意味を回復することもできないような、映画『聲の形』の西宮硝子にも向けられている視線なのです。
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この十年の京都アニメーション作品を、「特別」のキーワードから巡る旅の着点です。では、2016年の映画『聲の形』とは何なのか。
(公式サイト)
(画像は京都アニメーション公式サイトより引用)
ここまで辿り着いて、映画『聲の形』の西宮硝子は『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒのように「特別」にはなれなかった人間だということが分かってきます。それは、物語の主人公にはなれない、野球場の四万九九九九人側である一般視聴者の我々側とも言えて、この作品で描いている地点は、そんな「特別」じゃない人間でも、この世界で生きていけるとしたら、という風景です。
大今良時さんの原作漫画版『聲の形』から、今回の映画『聲の形』で一番変えてきているのは、仲間達との映画作りパートと、西宮硝子の「理容師になる」という夢のパートが削られているという点です。
これは、もちろんコミックスで全七巻の作品を二時間ほどの枠である映画という媒体に収めるにあたって、時間の制約で削ったという側面もあるかとは思うのですが、一番は、ここまで観てきた京都アニメーション文脈(『ハルヒ』文脈)を踏まえて京都アニメーション制作の最新の映画として本作を再構築するにあたって、西宮硝子を「特別」を獲得できなかった人間として描くのを徹底させたからという理由が大きいかと推察します。
ここで、「仲間と映画作りをする過程で生きやすくなった」と持っていってしまうと、それは『けいおん!(!!)』の唯と同じ解法(打ち込める対象=軽音楽/映画制作と、それを媒介とした仲間という共同体と過ごす時間)になってしまいますし、「理容師になるという好きなものに打ち込めるようになったから生きやすくなった」と持っていってしまうと、『響け!ユーフォニアム』の久美子と同じ解法(ハルヒ=麗奈にはなれないとしても、「ユーフォニアムが好き」という気持ちで生きる意味・自分なりの「特別」を取り戻す)になってしまいます。
映画『聲の形』は、ハルヒや麗奈のような意味での「特別」になれないのはもちろん、唯にも久美子にもなれなかった側の人間に焦点をあてるということを徹底しているのです。その意味で、映画『聲の形』の西宮硝子は、「白雪姫のキス」も受けられなければ、「花火」に日常の美しさを見出すこともできず、「仲間との楽しい時間」を心の支えにもできず、「打ち込める好きなもの」もない、そんな人間です。
そんな人間でも、この世界に「生きやすさ」を少しだけ感じられるようになれるとしたら、それはどういう要因によるのか。
この決定的な部分が、実はこの映画『聲の形』では分かりやすい形では描かれません。
そういう意味で、映画『聲の形』は、恋愛も成就しなければ、問題の根源たるラスボス的な何かを打倒するでもない、何も起こらないまま終劇している「不完全な」作品であるとも言えます。
しかし。
しかしです。
原作の再現という意味でも「不完全で」(映画作りパートや理容師パートがない)、大きいカタルシスを得られるようなイベントも描かれないという意味で一般的な物語文法的にも「不完全な」映画『聲の形』かもしれないのですが、逆説的に、その「不完全性」こそが、この映画のテーマの解答になっていると捉えられると思うのです。
何故なら、『涼宮ハルヒの憂鬱』から始まって、『けいおん!(!!)』を経由して続いてきた京都アニメーション作品の「日常の輝きを取り戻す」というテーマの、2016年の映画『聲の形』時点での帰結は、
不完全さの受容
だからです。
映画という「作品」の不完全さと、キャラクターという「人間」の不完全さを重ねて捉えるというのは、いささか飛躍して聴こえるかもしれませんが、受け入れて生きていくにあたって「赦し」の態度が必要になるというのは同じです。
「白雪姫のキス」は受けられなかったし(誰かの「特別」にはなれなかったし)、
「花火」に「日常」の「輝き」を見つけることもできなかったし、
時には共同体を維持するために、自分の本当の気持ちを押し殺してしまったりもするし、
これがあるから私は大丈夫というほど「好き」と打ち込めるものも見つからない、
そして、「告白」はすれ違ってしまう、すれ違ったまま、
そんな「特別」にはなれなかった「不完全な」自分を、あるいは「不完全な」あなたを、受容する、赦す、ということ。
そんな受容や赦しに至るまでの過程を、劇的なイベントを描くという手法ではなく、例えば静かに魂を慰撫するように流れる音楽で、ところどころに挿入されるそれぞれは花言葉を持っているささやかな花の映像で、そして不完全な登場人物たちを包む世界の風景描写で表現しているという繊細な趣向の作品ですが。
あえてとりあげるとすれば、朝ご飯の場面で、将也が姪のマリアが椅子から降りたいけど降りられない……と迷っていたところを椅子から降りられなくなっていたのに気づいて、何も言わずに下してあげる……という何気ないシーンがあります。
ちょっとしたシーンですが、将也が、一人では不完全なマリアを受容しているのを表現している、一瞬に全体が詰まっているシーンかと思います。そういうシーンの積み重ねで、石田将也が、西宮硝子が、不完全さの受容に辿り着くまでをこの映画では表現していたと思います。
ここで、
椅子から降りられないマリア、聴覚障害がある西宮硝子、硝子に「生きるのを手伝ってほしい」と言わないと生きられない石田将也までは、グレイダブル(gradable:段階的な)であって、そこに実質の「差異」はないという映画なんだということが見えてきます。この作品について語る上で焦点をあてられがちな硝子の聴覚障害という要素は、このグレイダブル性をあぶりだすための逆説的な設定でしかない。この世界に生きる誰もが、自分一人では生きられず、誰かに助けられながら生きているという意味で、「特別」ではない。
映画のラストシーンは、文化祭(学園祭)を仲間と一緒に観て回るというシーンです。原作漫画版と違って、映画作りもやってないので、将也たちは、この場でたとえば『けいおん!(!!)』の唯たちほどの「特別」性も獲得していません。「ライブ ア ライブ」のハルヒのようにも、『けいおん!(!!)』の唯たちのようにも、場の主人公として檀上に上がることはないのです(唯たちはあれで、学園祭では「ステージの上」の側の人間たちだったのです)。
そんな、「ステージの下」、数多の「特別でない」人間たちが行き交う場所で、石田将也が、これまで顔に×標を貼って聴かないようにしていた、周囲の沢山の人々、「ハルヒ」の比喩で言えば四万九九九九人側の数多の「特別でない」人々の声に気づく。耳を傾ける。
よく学校来れるよなぁ
中には、非難するような声も混じっています。でも、そんな他人を攻撃するような声を向けてしまう「不完全さ」も含めて、「特別でない」私、「特別でない」あなた、「特別でない」世界です。それを受容できるまでに、辿り着いたということ。
そんな将也が見つけた「特別でない」人達の中に、ラストシーンでは当たり前のように西宮硝子も入っています。
そんな「生きづらかった」西宮さんに、人々から、世界から向けられているまなざしは。
全編を通して西宮硝子と石田将也の「生きるための練習の過程」を綴った物語とも言える本作ですが、練習の間は、周囲からの補助が必要です。そんな「補助」にあたるまなざしとは。
例えば、『甘城ブリリアントパーク』で、居酒屋店員のタカミちゃんが、何かよく分からないけどモッフル卿が困ってるらしいから行ってあげようか、と思った心であるかもしれないし。
『響け!ユーフォニアム』で、壇上には上がれなかった夏紀先輩が、同じく檀上にも上がれず、恋愛でも敗北した葉月を抱きしめた態度であるかもしれないし。
映画『聲の形』で、椅子から降りられなくなっていたマリアに気づいて何も言わずに下してあげる将也の無償の優しさであるかもしれないし。
そういう「特別」でない人間なりに他者をちょっとだけ手助けするという類のこと。十年分の京都アニメーション作品で描いてきたその種の世界と人間の何気ない善性のようなもの、全部込み込みの視線です。
そんなあなたは「特別でない」、でもそのままで存在していてイイと言ってあげている視線が、少しだけ西宮さんを「生きやすく」しているというラストシーンでこの映画は幕を閉じます。願わくば、「特別」になれなかった四万九九九九人側の一般視聴者たる「あなた」も、あなたはあなたという存在として、少しだけ「生きやすく」あってくれたらいいなと、そんな祈りを伝え続けているような余韻を残して。
映画『聲の形』は、そんな不完全な我々を、西宮硝子を、石田将也を、ただ優しく照らしている。そんな作品なのです。
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→原作漫画『聲の形』Kindle電子書籍版全巻セット
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