相羽です。

 丹羽庭先生の漫画『トクサツガガガ』、雑誌『週刊スピリッツ』今週掲載分が、フリーマーケットで昔の作品の掘り出し物グッズを探して回るお話でした。

『トクサツガガガ』第1話の試し読みはこちら



 ここには、特撮にアニメに映画に、現代の超高速消費社会の中で毎日沢山の作品がリリースされているのに、何故か昔のものが気にかかる、という人間の心性が絶妙に切り取られていました。

 思い出したのはTJさん(ブログPixiv)が最近出した同人誌、『漫画版 仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』です。
 以下、Twitterから読者さんとのちょっとしたやりとりを引用させて頂きます。(問題がある場合は気軽におっしゃって下さいね)

 あんまりガチで解説してしまうのも野暮かもしれませんが、『PRECURE 10TH ANTHOLOGY ディケイド&オールプリキュア ANTHOLOGY大戦(詳しくはこちらの特設サイト)』〜『仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』で敵役のガラガランダと融合象徴されているのは、東映アニメーションの『白蛇伝』という作品ですね。

 そしてこの『白蛇伝』、現在は東映アニメーション様制作の作品を楽しんで観ているという人達の中でも、観ている人、そもそも知っている人は少ないという作品です。

 これらの同人誌『PRECURE 10TH ANTHOLOGY ディケイド&オールプリキュア ANTHOLOGY大戦』〜『仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』には、このように「今では忘れ去られた者たち」が沢山出てきます。

 めぐみさん、マナさん、ラブさんという、今よりも少し前のシリーズのプリキュア達、仮面ライダーゴースト(=象徴として、「過去」の偉人達の力を借りて戦うヒーロー)、過去の仮面ライダー作品を再生するために世界を破壊して繋ぐ仮面ライダーディケイド、そして、「赤いあいつ」ことレッドマン。  「忘れさられた」ことに怨念を抱いている敵役と、そういった「忘れされれた」作品を蘇らせるために世界(観)を破壊し繋ぐというのがコンセプトの「仮面ライダーディケイド」の両方がクロスオーバーして一冊の同人誌の中に出てくるのが、TJさんの同人誌の面白さだったりしますが。

 さて、この日々新しい作品が生まれている世界で、こういった「忘れ去られた者たち」に我々が惹かれる心性というのは、いったいどこから来ているのでしょうか?

 ◇◇◇

 一つは、日々新しいものを追い求めるように駆り立てられ、ゆっくりとはしていられない日々。いつの間にか「人間」的な生活から離れて、フと気付いたら「刹那的な消費マシン」に変えられてしまっていた現代人に対して、こういう「過去と繋がっている感覚」が一種のトランキライザー(精神安定剤)になっているのではないかという仮説を、個人的には持っていたりします。

 これにはもうちょっと根拠がありまして、現代日本人のけっこう多くの人が思っている、合理的であれ、効率的であれ、より速くあれ、より新しくあれ、そういうのは良いことだ……という価値観は、実は主立っては西欧文明が日本に襲来してきて以降に伝わってきて席巻した価値観で、実の所、もうちょっと深堀りしてみると、日本人の伝統的な心性や、もっといってDNAに根差した感覚に実はあんまり合ってないんじゃないか? という視点がありまして。これは別に僕だけじゃなくて、けっこう一線の学者様、研究者様、思想家様が同系統のことを述べておられます。

 この場合の西欧文明的価値観というのは、言い換えると(行き過ぎた)合理主義偏重のことでして、そこでは、物事、「存在」を「二項対立」で捉えるのが基本です。

 「古い―新しい」の「二項対立」で捉えて、「新しい」のは良いことだ、とするような思想風土です。

 (西欧)思想的には、その後、いわゆるAとBの「二項対立」を「止揚(アウフヘーベン)」してより上位の概念を生み出すという段階が出てきますが、そこまで込みで考えても、基本的により新しく、より先に、という「進歩」史観なのは変わらないです。

 この「進歩」志向に舵を切り過ぎている現在に、日本の人々、疲れてきてるんじゃないかと。

 もちろんバランスの問題で、日本の高度経済成長期を支えた、この素晴らしきかな「二項対立」的西欧文明的合理主義ですので、良かった部分も多々です。より新しいものを求めて、より速いものを求めて、より合理的で効率的なものを求めて、高度経済成長期は発展してきました。

 ただ、やはりバランスですので、一定のラインを超えると、まずい感じのことも出てきます。

 そのラインの一つは、「新しさや効率性を求めて、人間を犠牲にしても良い」というラインではないかと思います。

 「他者を手段としてではなく、目的としてとらえよ」と言ったのはカントという哲学者ですが、この、人間を人間ではなく「消耗品」として扱って、効率性のためのいわば薪としてくべてエネルギーに変えてしまおう、というような所までいってしまうと、いよいよ、人間のために効率化とか合理性とか新しさとか追及していたはずなのに、効率化とか合理性とか新しさのために人間を犠牲にする、という本末転倒感が漂ってきてしまいます。

 で、残念ながら、自殺率が高く、ブラック企業問題が猛威をふるっている現代の日本というのは、このラインを超えてしまった状況が多々出現しているということなのではないでしょうか。

 TJさんの同人誌『PRECURE 10TH ANTHOLOGY ディケイド&オールプリキュア ANTHOLOGY大戦』〜『仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』には、『仮面ライダーディケイド』という作品が元ネタとして重要な位置をしめておりますが、その『仮面ライダーディケイド』の脚本の會川昇氏がてがけて今年完結した作品にTVアニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜(公式サイト)』があり、同系の問題意識と、その処方箋が描かれておりました。

 その『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』からすると、「新しさや効率性を求めて、人間を犠牲にしても良い」というラインを超えてしまった状態というのは、物語終盤の超人(ヒーロー)を鋳型に押し込めて溶かして(ヒーローも消耗品になってしまった状態のメタファーかと思います)、エネルギーに変えてしまおうという展開で描いていた箇所なのだと思います。

 そういう世界に対しての、主人公人吉爾朗(ひとよし・じろう)の叫びと、エンディングがすこぶる良いですので、『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』も処方箋としてはお勧めですよと。

参考:『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』最終回の感想(ネタバレ注意)

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 で、そういう世界にあって、商業では『トクサツガガガ』『仮面ライダーディケイド』『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』『レッドマン』などなど、同人では『仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』などなどがトランキライザー(精神安定剤)的な処方箋として機能しているのは、単純に「懐かしいな〜」という感覚に癒される、という部分もあるかとは思うのですが、単純にそういう懐古的な感覚のみならず、もうちょっと日本人の人間心理の深い部分に働きかけている要素があると個人的には感じています。

 それが何かというと、より新しいものを求めて、より速いものを求めて、より合理的で効率的なものを求めて、人間の「消耗品」化に行きついた西欧文明的「二項対立」の合理主義偏重に対して、上記のトランキライザー的作品からは、古来からの日本独特の、必ずしも「二項対立」を設定しない思想・価値観が共通して感じられるからです。

 その、日本的思想・価値観が何なのかと言いますと、ブディズム(仏教)であったり神道であったりアニミズム(ざっくりとは「八百万の神様」的な考え方)であったり、そして草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の精神であったりすると思うのです。「たましい」のようなもの、人間だけじゃなくて、植物とかにも宿ってるよ、もっと行って「仏」性とかあるよ、みたいな世界観ですね。

 仏教と神道とアニミズム自体が、非常に複雑に混じり合いながら独特の体系を作ってきたという歴史背景が日本にはありますので、この辺りは端的な説明が難しいのですが、概ね、「二項対立」では世界を捉えないというのは一致します。これが、日本古来の価値観で、今だからこそ、そういうのに触れると、なんだかDNAに響いてくる感じがして、我々は癒されるのではないかと。

 仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な日本的思想・世界観では、実は西欧文明のように「生―死」「人間―自然」を、「二項対立」に分割する、ということをやらなかったりします。

 この文章を読んでおられる方も、どっぷり西欧思想的な「二項対立」の考え方に浸かった中で成長してきて日々生活しておられるかもしれないので、そんなわけないだろ、と思われるかもしれませんが、そうなのです。仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な日本的思想・世界観からすると、「生―死」は二項対立ではないので、ちょっとスピリチュアルな感じに聞こえるかもしれませんが、「死」が全ての終わりではないという感じの世界観になります。

 この、「生―死」は二項対立ではない、という日本的世界観の再構築のため、南方熊楠(みなかた・くまぐす)が、西欧文明上陸の嵐が吹き荒れる当時の明治で、「粘菌」という動物とも植物とも捉えられない不思議な「存在」を研究していたのは、けっこう有名な話だったりします。

 粘菌、湿気の多い時期にはアメーバとなって移動しながら捕食活動してるので動物的なのですが、乾燥期の到来が予測される頃には植物のように動かなくなって胞子を飛ばし、その胞子の中にはまた動物性アメーバがおさまっている……という動物とも植物とも捉えられない「存在」で、どこからが「生」でどこからが「死」とも定義できない、謎な「存在」です。

●参考図書



 そういう意味で、「生―死」を二項対立で捉えるのではなくて、「不生不滅」(これは仏教経由の言葉ですが)という捉え方が、実は日本的だったりします。

 そんな、学術的な話から特撮の話にもっていくのか!? と感じられるかもしれませんが、この流れから、実は『仮面ライダーディケイド』のTVシリーズ版が「ループ構造」になっているのは、生(始まり)も死(終わり)もないという世界観になってるという意味で、非常に「不生不滅」の、仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な世界観で表現されていたのだと、今なら思い至ります。

 『仮面ライダーディケイド』に関しては、僕もTJさんもけっこう書いてるので、三つほどリンクを。↓


仮面ライダーディケイド最終回・メタ解釈の解説

仮面ライダー×仮面ライダー W(ダブル)&ディケイド MOVIE大戦2010/感想

ディケイド考 - Togetterまとめ


 西欧文明思想(合理主義偏重)一辺倒だと、そっちに突き進めていくと、死、終わりを迎えた作品はもう「消費」し終わって、さらにより良く、より新しく、より優れた作品へ向かうぞ! という考え方になっていってしまうのですが、前述したように、現代日本人の我々は、この感覚にちょっと疲れ始めている気がします。

 明治期、太平洋戦争の敗戦期と、大きくは二度断絶して、すっかり西欧文明的な価値観が浸透してきた現代日本とはいえ、まだまだ街の神社に、我々が未だ使っている何気ない小物に、習慣に、コミュニケーションの様式の中に、まだまだこの「二項対立」で捉えない仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な日本的思想・世界観は風景のように溶け込んでいて、我々日本人の精神の土台を形づくっていますので、そこを無視して強引に度が過ぎた、より速く、より新しく、より効率的に……という嵐にさらされてしまうと、精神のバランスが崩れてしまうのではないかと。

 そういう時に、「過去―今」すら「二項対立」で捉えないで、「今は過去に含まれ、過去もまた今に含まれる」という不生不滅の、仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な世界観を漂わせている作品に触れると、我々は少しだけ精神のバランスを整えることができるのかもしれません。

 そんな作品が、『トクサツガガガ』『仮面ライダーディケイド』『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』『レッドマン』『仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』などなどであったりだと。

 日曜日の朝放映番組関係の作品が多いので、ここでプリキュアシリーズの話にまでちょっと立ち寄ってみますと、最新作『魔法つかいプリキュア!』で、モフルンという「物」が、「情」、つまり「心」を宿すっていうのが、非常に不生不滅の、仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な日本的な価値観だよね、という話を昨日、この記事で書きました。↓


草木国土悉皆成仏を唱えてモフルン師匠にブッダが宿る〜魔法つかいプリキュア!第36話「みらいとモフルン、ときどきチクルン!って誰!?」の感想(ネタバレ注意)


 「情」を宿すどころか、今度の映画ではプリキュアに変身します。「物」なのに!?

 そこで、大事になってくるのが、プリキュアシリーズでは『フレッシュプリキュア!』という作品です。はからずも『仮面ライダーディケイド』と同時期に放映の作品でしたが、プリキュアシリーズの中でも、けっこうダイレクトに、「輪廻」のようなもの。まさに不生不滅、生と死は「二項対立」ではなくて、「死」はまた「生」の始まり的な要素を扱っていた作品でした。イース様が死んで、せつなさん(キュアパッション)として生まれ変わる、みたいな展開ですね。

 これは、劇場版の『映画フレッシュプリキュア!おもちゃの国は秘密がいっぱい!?(感想)』だと、トイマジンさんが、一旦死んで、クマのヌイグルミとして次の生を始める、というラストシーンにもかかっています。どこからが「死」でどこからが「生」とも、「二項対立」では捉えられない、連続性の世界観が描かれている箇所です。

 なので、『魔法つかいプリキュア!』のモフルン=擬似『フレッシュプリキュア!』のトイマジンさんアフターだったりするのかな、なんても思います。少なくとも、「解釈として」、「不生不滅」的な世界観を表現しているとは捉えられます。

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 あまりにも「二項対立」の暴風が吹き荒れる中、自分は「消耗品」になってしまっているな、「刹那的な消費マシン」になってしまっているな、と感じた時、これらの作品群に触れて、より古来の日本人的な「たましい」に馴染んでいる、「不生不滅」の、仏教的、神道的、アニミズム的、草木国土悉皆成仏的な世界観を自分たちの心に再構築していくという過程は、ささくれだった心に慈雨として染みこんでいくやもしれません。何てこった、僕らは、『レッドマン』を観ながら、心の調和を取り戻そうとしていたんや……。

 過去の『レッドマン』は忘れて「次へ次へ!」の一辺倒だけじゃなく、「今は過去に含まれ、過去もまた今に含まれる」という『仮面ライダーディケイド』的で、実は日本古来的でもあった、世界感覚は、わりと大事なものに思われます。逆に言うと、最新のSNSゲームを追うのに精いっぱいで、何ら「過去」の作品にしみじみと触れる機会が持てないという状態になってきた時は、そろそろ、何かを調整し始めた方が良いというサインなのやもしれません。

 「ブラック社会」の問題とか、残業時間が何々以上は「ブラック」みたいな客観的な数字の話ではなくて、人間ではなく「消耗品」として扱われてしまうかどうかがラインという気がしております。そういう意味では、例え栄華を極めているように見えている人気声優さんだったとしても、「消耗品」として扱われてると感じた時は、もう辞め時かもしれません。いや、いきなり辞めるのは難しくとも、何かを変え始めなければならないタイミングです。

 少し、より新しく、より速く、より効率的にの暴風から距離を取って、何だか2016年に作られた『レッドマン』Tシャツを着てみる。日本の様相の中でも、そんな部分が、意外と大事なのかもしれません。

 余談ですが、僕とTJさんとRubyさんで、旧東映アニメーションビル(解体前の)内の展示で閲覧できた『明日のナージャ』コーナーでしみじみとしたことがありました。

 あの、独特の空気。

 TJさんの同人誌、頭の中だけじゃなくて、こういう「肌感覚」みたいなのもあって、反映されてるのがイイ感じなのだと思います。

 最後に『明日のナージャ』も張っておきますね。続編が作られたりな段階まではヒットしなかった作品で、どちらかというとポジションとして今は「忘れ去られた者」な感じの作品かもしれませんが、放映当時毎週観ておりました。

 ナージャが一旦ダンデライオン一座から離れる第40話からが、見所ですよ、と。

「明日のナージャ」DVD-BOX
小清水亜美
フロンティアワークス
2016-02-10