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 『劇場版 艦これ』(公式サイト)の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 『アニメ艦隊これくしょん -艦これ-』。

 TVシリーズが、ループする世界でifミッドウェー海戦に勝利して(史実を)ルートブレイクしました、やった! という話に表面的に見えつつ、それはあくまで「表」エンディングで、隅々の描写から視聴者が能動的に組み上げると見えてくる(ある意味まったく違う)「裏」エンディングがあるよ、という話は、2015年のTVアニメシリーズタイムリー放映時に、こちらの記事などに詳しく書いておりました。↓


参考:アニメ艦隊これくしょん -艦これ-/第12話(最終回)感想(少しラストシーンの解説含む)


 今回の劇場版は、完全に「裏」エンディング側を深堀りしていく物語で、大変満足でありました。

 TVシリーズでの「裏」に繋がる伏線は、


・吹雪に着任前の記憶がないのが示唆されている。
・吹雪が一度轟沈してるのが示唆されている。金剛さんなど、艦娘達の一部はそれ(艦娘達が以前は轟沈した存在だということ)を知っているのが示唆されている(第4話「大丈夫、ちゃんと分かりますよ」(金剛)など)。
・何故か(ゲーム版と違って)艦娘達に現実の第二次世界大戦の記憶(自分達が戦争で沈んだ船であるという記憶)がない。


 など、色々とありました。

 基本的には、この作品世界が「閉じた」ループ的世界になっていることに関する伏線なのですが、劇場版ではこれに加えて、艦娘が沈むと深海棲艦になり、深海棲艦が沈むと艦娘になる……という、終わらない「閉じた」ループ感が補強される世界観設定が明らかにされます。

 南方熊楠の粘菌(湿気の多い時期にはアメーバとなって移動しながら捕食活動してるので動物的なのですが、乾燥期の到来が予測される頃には植物のように動かなくなって胞子を飛ばし、その胞子の中にはまた動物性アメーバがおさまっている……という動物とも植物とも捉えられない「存在」で、どこからが「生」でどこからが「死」とも定義できない、謎な「存在」)の研究を彷彿とさせる、どこからが死で、どこからが生なのか、そもそもそこは分離できるのか? みたいな深淵な問いが発生する世界観設定ですが、敵が、実は自分かもしれない? と、自他境界を曖昧にする、埴谷雄高文学などで扱うところの「自同律(自分が自分であること)」の制限をゆるくして、自分が他人かもしれない、他人が自分かもしれない、それゆえに、この自分という存在は他人の立場に共感できる……という構造をあぶりだしていくのは、今年の大ヒット作品だと『君の名は。』も基本的にこの構造で、東京の少年と地方の少女の自同律をゆるめて「入れ替わり」を生じさせて「共感」を喚起するという物語ギミックでした。

 これは、実際には特に新しい手法ではなくて、『君の名は。』の系譜を遡っていくと日本の古典の『とりかえばや物語』に辿り着き(男女の入れ替わり物語で、お互いの立場になってみたがゆえに共感が生じていく構造も同じ)、さらに遠景には近代的自我が高らかに称揚される以前の、自他境界がゆるやかなトーテミズム(ざっくりとは、自分という存在が、ここにいる人間である自分であると同時に地中のヤムイモでもあったりする(人間ですらない!)みたいな世界観)的・アニミズム的世界観が広がっています。

 そういう意味で、第二次世界大戦という近代の帰結を題材として扱っておきつつ、艦娘と深海棲艦の関係はより古くからの日本的な精神・価値観の枠組みの方で捉えやすいというのは、とてもコンセプチュアルな感じです。このトーテミズム的なものは、『君の名は。』では、男女の入れ替わりの想像力から出発して、やがて東日本大震災で亡くなった人々は、あなた自身かもしれない、という想像力を喚起させる所まで連れていくギミックとして使われておりましたが、『艦これ』の場合は第二次世界大戦で犠牲になった人は、あなた自身かもしれない、という想像力を喚起させますし、その想像力は現在の現実でたとえば中東で起きている戦争の犠牲者は、あなた自身かもしれない、という想像力にまで我々を連れていきます。

 TVシリーズはこうした想像力の喚起を「裏」に置く形にして、「表」はシンプルなゼロ年代ループもの作品のルートブレイク展開に「表面的に」見えるようになっていたのですが、これは、深海棲艦側の吹雪、「正邪」のうちの「邪」的な部分を、艦娘達の第二次世界大戦時の「過去世」の記憶ごと封印してしまっていた(という設定の)上で描かれていた世界だったので、劇場版で種明かしされた後だと、さもありなんという感じでした。

 先ほどのリンク記事で、アニメ『艦これ』は非常にゼロ年代ループもの作品的だったというのを考証しましたが、TVシリーズ版で表面的なループ世界(仮構世界)での物語を描き、劇場版で真相へ……という持ってゆき方自体が、僕がゼロ年代作品群の総決算作品と捉えている『仮面ライダーディケイド』と同じ手法で、作品内の物語が重なるだけじゃなく、作品の展開の仕方も似ていたなぁ、などとしみじみしてしまいました。


参考:仮面ライダーディケイド最終回・メタ解釈の解説

参考:仮面ライダー×仮面ライダー W(ダブル)&ディケイド MOVIE大戦2010/感想


 そのようなわけで、この点も『仮面ライダーディケイド』と重なる部分でもありますが、そのような(TVシリーズ的な)ループ的・仮構的世界の中で、何を真実性として描くのか、というのが本作の主題になってきます。

 その点でTVシリーズで一番重要なシーンは第10話(感想)の例のシーンで、アニメーション版では吹雪が現実世界の提督(プレイヤー)と結婚しているのが示唆される場面があります。

 つまり、ループ的、仮構的世界だとしても、そこで紡がれた「縁」には意味がある、と。そこがこの作品の一番のメッセージなのではないかと思います。

 TVシリーズ版ではこのループ的、仮構的世界での「縁」が、現実世界の「縁」にも意味をもたらし得るという要素を、吹雪と提督の「縁」の他に、北上さんと大井さんの「縁」、赤城さんと加賀さんの「縁」、長門さんと陸奥さんの「縁」、などなどで匂わせていましたが、劇場版ではこの要素を、睦月さんと如月さんの「縁」に絞って昇華させていた感じです。

 さて、WEB上には『艦これ』について語ったり、『艦これ』を鑑賞したりプレイしたりするのに読んでおくとより喜びが増すテキストというのがいくつかあって、そのうちの一つはいずみのさんのこちらのテキストです。↓


参考:田中謙介プロデューサーの回想するアニメ艦これ/ピアノ・ファイア


 これ、TVシリーズタイムリー視聴の時は、第10話の吹雪と提督(プレイヤー)が結婚している東京の街のシーンは「現実」と僕は呼称していたのですが、こちらの記事を読み、かつ劇場版まで鑑賞した今となっては、より正確には「未来世」なんだろうな、と。

 田中謙介プロデューサー自身が原作を手がけられておられる『いつか静かな海で』という作品にかなり明示的に現れている以上、プロデューサー様自身にそういう(あるいはそういうのもアリだな、という)想像力があるのは確かかと思いますが、ことアニメ―ション版に限っては、艦娘たちの「未来世」は、護衛艦ではなく、現在の(未来の)街で暮らす普通の女の子として描かれていると思います。

 個人的に劇場版の一番の泣きどころは、睦月さんが如月さんに「また……見つけるから」と言うシーンでしたが、ラストシーンの睦月と如月の再会シーンも、まだループ世界内なのか、「未来世」なのかボカされていると感じました。

 つまり、「過去世」=第二次世界大戦時の戦艦としての記憶と、「未来世」=現在の(たぶん東京で)生きている女の子の記憶と、両方から干渉を受けつつも、閉じたループ的仮構を繰り返している「境界領域」の世界(海でも陸でもない、「境界領域」の「波打ち際」がモチーフに使われている作品だったりもします)、それが「艦これ」ワールドだったと。

 「過去世」の方が無機物(戦艦)で、「未来世」の方が人間というのも、前述のトーテミズム的な世界観からすると、よりしっくりときます。

 TVシリーズの段階では、この「過去世」要素と「未来世」要素は「裏」に隠して、本当断片的にしか作中には出て来なくて、ループ世界、仮構世界の中の出来事を「表」として描いていたのですが、劇場版は、この「過去世」要素(吹雪が自身のシャドウ的な存在と邂逅するシーンで、ついに明確に沈没した戦艦のイメージ映像が出てくる)と、「未来世」要素を、接合して「世界観」としての一つの「解」を描いていた感じでしょうか。

 吹雪のシャドウ的な存在に対する対応の仕方も、打倒するという感じではなく(打倒してしまっては、TVシリーズの第十二話が「一見」そう見えるように歴史改変になってしまう)、抱きしめるという描写で、どちらかというと「受け入れる」というニュアンスに感じました。

 「過去世」は悔恨も含めて受け入れた上で、象徴的には「希望」という言葉が出てきましたが、平和の元に己の本徒を全うできるような「未来世」を選ぶ、ということ。

 もう一段メタな感じになってしまいますが、そうなると、このループ的、仮構的「艦これ」ワールド自体が、リアルの我々が生きている現実世界もそんな感じだ……となっているのに気づかされます。劇場版の、世界の仮構性に気づきながらも自分という存在が生きる意味とは何なのかと問いかける、大和さんと吹雪の会話のシーンは、そのまま現実を生きる我々にも向けられています。

 実際のところ、現実の我々も過去のこととか良く分かってなくて、劇中の吹雪のように突き詰めると自分の記憶が本物なのか証明もできない、過去はフィルターを通して歪めたりなかったことにしがちで、現在は己の本徒と違う生き方をしているともがいている。

 それでも、そんな世界で結ばれた「縁」というものには意味があると信じたいから、何とか生きている。

 そんな、「正」「邪」があるとしたら「正邪」ごと存在としては受け入れて、相互貫入し合ったままの「波打ち際」を生きてゆくような機微を遠景に、「過去世」の戦艦としての「縁」をこの世界でも尊重し、「未来世」での再会を願う。その願いがラストシーンでは成就する。そこまで想える自分以外の存在(=他者)がいるなんてこともあるのなら、このループ的で、仮構的で、自分の本徒もままならない世界で生きているのにも、少しは意味があるんじゃないか。

 そんな「希望」を感じることができるので、TVシリーズ『アニメ艦隊これくしょん -艦これ-』〜『劇場版 艦これ』は素晴らしい作品だと思うのでした。

「劇場版 艦これ」Blu-ray限定仕様
上坂すみれ
KADOKAWA / 角川書店
2017-08-30


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