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ネタバレ注意です。
長年の当ブログの解釈の通り、京都アニメーション作品にはいくつか作品をまたいで受け継がれ・進展しているテーマのようなものがあります。
現在リリースされている作品群の中で、その最も最新のものは映画『聲の形』(公式サイト)で描かれており、この『響け!ユーフォニアム2』は、「その次」の物語である、ということ。↓
参考:映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)
そして、その流れの中でもこの『響け!ユーフォニアム』は「ポニーテール」に象徴性を持たせた「ハルヒ」文脈の作品であるという点は、当ブログのこちらの記事を。↓
→[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
ここまでを前提としつつ。
◇◇◇
第一期から、集団の和を「表面的に」保つための同調化圧力(「周りの空気に流されること」)に、懐疑の視線が向けられ続けているという作品だったのですが。
参考:『響け!ユーフォニアム』アニメが描いていたものを原作小説から読み解く/やまなしなひび−Diary SIDE−(特に後半の「◇ 何故、この吹奏楽部は変わったのか?」の辺り)
「表面的に」は、それこそ反『けいおん!(!!)』のごとく、努力して「競争(コンクール)」を勝ち抜くことは尊いという風な物語を描きながら、外側から、でもそれって「同調化圧力」に屈してるだけだよね? と指弾する葵の視線が存在し続けている……というような作品です。
なので、この作品を鑑賞して、やっぱり何かに打ち込んで一生懸命頑張って「競争」を勝ち抜くって素晴らしい! と、その面にだけ感化されて無邪気に喜びを表現していると、その分だけ、その鑑賞者も「同調化圧力」に染まってる人だ、その「同調化」の外側の視線は想像できない人だというのが露見されるという、ある種のトラップが仕掛けられている作品でもあります。
このように、「一つの作品に二重の受け取り方がある」というのは最近の京都アニメーション作品が意図的に作り込んでいるフシがある部分で、『無彩限のファントム・ワールド』も、
表:おっぱいアニメ・気軽に楽しめる異能バトルエンタメ作品
裏:「ハルヒ」文脈を踏襲した「代役」にまつわる哲学的(衒学的)・文学的作品
と、両方に受け取り可能な作り方をしておりました。
参考:『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)
なんで「意図的」というかといったら、『無彩限のファントム・ワールド』では、「ルビンの壺」の話をわざわざ作品に登場させて、この「一つの存在が、主観側の受け取り方次第で二重に受け取れる」という話を、わざわざ劇中で説明的に描いているからです。作り手・送り手側に「意図」・「メタ認知」がないと、こういうことはできないですし、しないです。
そういった最近の京都アニメーションの作品作りの中で、本作も、いわば「表」と「裏」の受け取り方が(視聴者側の主観次第で)可能な感じになっていて、それはさしずめ、
表:一つのことにコミットして一致団結して「競争」を勝ち抜いてゆくのは素晴らしい! という物語
裏:「競争」の世界観だけでは勝ち抜けなかった者(敗北した者)は存在していけないじゃないか。また、一致団結してるのは「同調化圧力」に流されているだけではないか。という物語
という感じです。
当ブログの感想では主に「裏」の方の話に興味関心を向けて書き続けてきております。
「裏」の方の話、こちらの物語で課題となっている点を整理すると、要は、振り子が「競争」側に振れ過ぎても上手くいかず(勝てなかった者を蹴落としてしまうから)、逆に「共同体」側に振れ過ぎても上手くいかない(「同調化圧力」に乗れなかった者は排斥されるから)。
この二つのバランスをとる、ないし、二項対立で捉えずに「全体性」を回復する……という物語が求められていることが見えてきます。
「競争」は「個」を押し進めていく方向性ですし、「共同体」は「全体」を押し進めていく方向性ですから、哲学とか、そういうジャンルでは古来からの、逆に言えば普遍性がある物語にまで接続が可能になってくる……というのが見えてきます。
つまり、「個」と「全体」の相克、二律背反をどうするのか、「競争」と「同調化圧力」をどうするのか、『けいおん!(!!)』(本作のシリーズ演出の山田尚子さんが監督)では「共同体」側に振れ過ぎていた感がある部分(基本的には唯澪律紬梓の「軽音楽部」の繋がり・共同体は素晴らしい、「輝いて」いるということを描いていた)を、どうバランス、調和にもっていくのか、ですが、今作では「解法」のようなものが「エンターテイメント作品としての芯を外さない上で」表現されています。
それこそ、哲学の話とかをしだしたら、いや、それ数千年前に指摘されてるでしょ、という話になってきますが、2016年の現代という時期(哲学書とか、難しい文章とかはあんまり読まれなくなってる)に、触れやすいアニメーションという媒体で、入り口から深部まで導線を作ってる、という点が大変に素晴らしいと思うのでした。ハイデガーの本にも、龍樹(ナーガールジュナ)の本にも、視覚的に喜びに満ち満ちた可愛い女の子は出てこないですからね……。
可愛い女の子に萌えてたうちに、いつの間にか哲学とか物語論とかの数千年の深みの世界にも連れていってくれる。こういう入りやすさと深淵さを同時に成立させられる表現形式は、日本のアニメーションならではという気がします。夏紀×優子本を作ろう(え)と思ってたら、いつの間にか仏典を参考図書にしてた、みたいな感じです。
さて、その「競争」と「共同体」の二律背反を解消する物語的な「解法」ですが、あすか先輩に象徴的に問題が集約されているように描いているので、あすか先輩が救われるくだりが、そのまま「解」になる感じの物語運びになっていたと思います。
あすか先輩は、「競争」側に振れ過ぎると、そもそものお父さんが離れていった源泉が「競争原理」の世界観(あすか先輩のお母さんを選ばなかった・切り捨てた)なので、自分の存立基盤が壊れてしまうキャラクターです。その様は、お母さんを切り捨てるに至った「競争原理」の世界観に傷ついているはずなのに、あすか先輩自身も希美先輩を切り捨てるという選択を取る、という「呪い」の形で第二期の物語前半部分では表現されていました。
一方で、あすか先輩は同様に「共同体」側に振れ過ぎると、「同調化圧力」に基づいて、自分は消えた方が部(集団)のためになる(というロジックがとりあえずは成り立つ)ので、やはり自分という存在が存在できなくなってしまうキャラクターです。
「私がこのままフェードアウトするのがベストなの。心配しなくても、私のことなんか忘れる。一致団結して本番に向かう」(田中あすか)
この、大袈裟に言えば「切り捨てられた方が世界のためになる存在」にまつわる物語モチーフが、京都アニメーション作品では2009年の『涼宮ハルヒの消失(感想)』から続いていて、その一つの頂点が、ポスト『涼宮ハルヒの消失』というポジションの作品である『境界の彼方』で描かれていたというのは、こちらの記事を参照です。↓
参考:『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)
こんな感じで、あすか先輩は「競争(個)」に振れ過ぎても、「共同体(集団)」に振れ過ぎても自分自身は消えてしまわないといけない、というポジションなのですが、まず理論的に、「個」と「全体」は二律背反で捉えがちですが、それは西欧流の合理論(「排中律」がある)だからであって、東洋思想方面の「境界」が相互貫入し合っている考え方だと、「排中律」が排除可能になってくるので、二律背反を起こさず、というか、アンビバレントはアンビバレントなまま「全体性」をもって捉える、みたいなことが可能になってきます。
そういう(哲学とか論理学方面の)理論的な背景は第二期の第一話の感想記事に書いたので、そういう話にも興味がある方は参照してみてください。↓
●響け!ユーフォニアム2感想/第一回「まなつのファンファーレ」(ネタバレ注意)
で、そういう哲学的・抽象的な話を置いておいて、物語として、問題が集約されてるあすか先輩がどのように救われているかと言ったら、主には二つあって、一つは当然久美子の存在です。
今話の久美子があすか先輩に本心からの言葉の炎を浴びせるシーンが、あ、ここであすか先輩は救われたんだな、部にも戻る気になったんだな……というのは直感的に分かりやすい箇所ですが、上記の流れから観てみると、まず自分自身が「同調化圧力」に流されやすいキャラクターだった久美子が(この局面にきてなお、最初は「みんな」が言ってるという言い方をしてしまう)、ついに久美子自身の「個」としての本心からの言葉をあすか先輩にぶつけるシーンなんだというのが分かってきます。つまり、「共同体(同調化圧力)」側に振れていた振り子が、グっと「個」の側に振れているシーンなのです。
一方で、その流れと矛盾しないように、久美子の発した言葉は、「競争」的な世界観を抜きにした、まるまるのあすか先輩という存在の肯定でした。
「先輩だってただの高校生なのに!」
「先輩のユーフォが聴きたいんです!」(黄前久美子)
今までの感想だと「堕天」という言葉を使っていましたが、ここであすか先輩は「特別」であることから解放されて、ただの高校生=別に競争を勝ち抜くような存在じゃなくても、コンクールを勝ち抜いて進藤正和に辿り着くことがなくても、自分はいて良いんだという「存在して良いという承認」を受け取っています。
ここで、前回の感想(この世界との縁がほどけてしまわないように〜響け!ユーフォニアム2第九回「ひびけ!ユーフォニアム」の感想(ネタバレ注意))で触れたあすか先輩の「足」の描写が再び挿入されます。震えているのは、この世界に存在していて良いんだという承認を受け取った喜びゆえです。
「呪い」が解けた瞬間。前回の感想で、何気なく『源氏物語』を引き合いに出したのですが、第一話の宇治の花火大会は(リアルの方でも)『源氏物語』モチーフだったりするのですね。わりと本当に物語に『源氏物語』要素を組み込んでいたのか。かくして、あすか先輩は幽霊じゃなく、この世界に「足」で立つ。
「個」と反「個」を二律背反でなく、そのまま包摂してるシーンを美しく描いていたなぁと思った箇所ですが、成立させていたのは理屈抜きの黒沢ともよさんの圧倒的な演技でしたね。第一期第十二話も凄かったけれど、それを言い出したら『ドキドキ!プリキュア(感想・別ブログ)』の主題歌を歌ってた時から凄かったけど(「君を信じる、ために戦う」の歌詞の所で涙が出るよね)、今話も、凄い領域を目撃したなぁ、というシーンでしたね。
●「響け!ユーフォニアム2」監督・石原立也×原作者・武田綾乃対談/コミックナタリー
によると、「黒沢さんが割と役に入り込む方」とのことなのですが、西欧流の「合理(排中律アリ)」を超える領域を表現するのに挑んでるシーンなわけですから、やっぱり重要になってくるのは「感情」かと思います。感情、魂を込めて言葉に乗せて撃ち抜く演技、今年は、個人的には映画『聲の形』の西宮硝子の早見沙織さんと、今作の久美子の黒沢ともよさんは何か凄い領域まで入っていたなぁ、という感想です。
その感情が乗った絶知の演技に支えられて発せられた言葉が、あすか先輩が、このままでは自分の本懐=好きなこと=ユーフォニアムを続けられない……というシチェーションを前提にした上での、
「待ってるって言ってるのに諦めないでください。後悔するって分かってる選択肢を自分から選ばないでください。諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにしてください」(黄前久美子)
です。
全ての、結局は『けいおん!(!!)』を貫けずに、好きなことを諦めそうになってる視聴者に送る2016年時点でのメッセージです。
今月の3日は、『映画けいおん!』の公開からちょうど五年だったりしました。
このままだと、「競争原理」と「同調化圧力」の両サイドからわけ分からないくらい殴られ続けて、いつの間にか自分の「好き」とは全然違うところに連れて行かれちゃうというシチェーションも、大きい母数の視聴者と重なります。
『けいおん!(!!)』に感化されて買ったギターも今では錆びつかせて、自分の本懐からは遠ざかり、大事だった人達とも疎遠になり、わけが分からないまま過酷労働にあけくれ、深夜にフとこのアニメを観た、という視聴者もいるかもしれません。
久美子の感情のトリガーになってるのは、姉の麻美子とあすか先輩を重ねているからという描き方ですが、麻美子がトロンボーンを辞めた時期、というのが『けいおん!(!!)』が放映されていて、そして終わった頃と重なる、というのも視聴者にメタに重なっていきます。
「GO!GO!MANIAC」で「大人たちは言うけど 好きなことばっかしちゃダメんなるって言うけど そうかな!? どうかな!? ねえ 好きなことに夢中んなってる瞬間ってさ 生きてるって感じだし…幸せだし……だからいいや つーかダメんなるわけない」とメッセージを発してから、もう一度この言葉を伝えるのに、これだけ時間と労力をかけて文脈を再構築して、黒沢ともよさんの出現を待ち、このシーンのこの一点に全てを込める必要があったのです。
無謬で『けいおん!(!!)』は続けられなかった。そんなことはもう分かってるのです。好きなことを続けられないような、大事な人達と離れ離れになるような災害もあったし、社会も、あすか先輩にも、視聴者たちにも、「大人たちは言う」類の「競争原理」の世界が、「同調化圧力」が、とてもとても厳しかったのです。
それでも、もう一度言うのです。サブタイトルに「ほうかご」を冠した回で(「オブリガート」はポルトガル語で「ありがとう」ね)、「あきらめるな」と。
かくして、ユーフォ(=好きなこと、自分の本懐、自分の存立基盤)を手に、あすか先輩は部に帰還。
ここで、あすか先輩の救済をになう二つ目、夏紀先輩です。
これまでの感想で書いてきた通り、「競争原理」と「共同体」を二律背反しないように繋ぐ鍵、「代役」という存在、「代役」なりの「特別」、というヒーロー像です。
「大人たちは言う」類のロジックで自分自身で武装してしまっていたあすか先輩が見逃していたことがあった。あすか先輩は夏紀先輩は「同調化圧力」に基づいてそう言うしかないんだと言っていたけれど、夏紀先輩は「個」として、自分自身の本心から「代役」という「特別」を選び取っていたこと。
「夏紀、ごめん」(田中あすか)
「謝らないでください。私、あすか先輩のこと、待ってたんですから」(中川夏紀)
揺れるポニーテール。
「代役」という「特別」。
この夏紀先輩の去りっぷりは本当にカッコいい。「競争原理を礼賛して限られた椅子を奪い合うでなく」、「同調化圧力に基づいて同調できない者を排斥するでもない」、「個」が己の本懐を全うしたまま「共」にいる、奇跡の「次の」「共同体」、そういうものがあり得るのかもしれないのを、信じたくなってしまうシーンです。
作品をまたいで京都アニメーションが繋いできた「代役」というヒーロー像を背後に観ても良いのなら、優れた支配人である可児江西也の「代役」に過ぎない『甘城ブリリアントパーク(感想)』の千斗いすずが、虚構(ファントム)の身で晴彦の能力の「代役(バックアップ)」になっていた『無彩限のファントム・ワールド(感想)』のルルが(どちらもポニーテール)が、報われた瞬間を切り取ってもいる、この夏紀先輩の去り際の「特別」なポニーテールなのです。
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→公式ガイドブック
→前回:この世界との縁がほどけてしまわないように〜響け!ユーフォニアム2第九回「ひびけ!ユーフォニアム」の感想(ネタバレ注意)へ
→次回:『響け!ユーフォニアム2』第十一回「はつこいトランペット」の感想へ
→当ブログの『響け!ユーフォニアム(2)』感想の目次へ
【関連リンク0:2016年秋時点での京都アニメーション文脈(ハルヒ文脈)の最新地点、映画『聲の形』について】
→映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)
【関連リンク1:京都アニメーションがこの十年どういうテーマで作品を繋いできたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事】
→『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)
→[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
→『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら
→[5000ユニークアクセス超え人気記事]『境界の彼方』最終回の感想(少しラストシーンの解釈含む)はこちら
→『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
→『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら
→『氷果』最終回の感想はこちら
→『けいおん!!』最終回の感想はこちら
→『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
【関連リンク2:(特に東日本大震災以降)「共同体を再構築してゆく物語」を日本アニメーションがどう描いてきたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事(主に吉田玲子さんが脚本・シリーズ構成を担当していたもの)
→あの日欠けてしまった人の日常(=マヨネーズ)に私がなるということ〜『ハイスクール・フリート』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想(ネタバレ注意)
→『けいおん!(!!)』シリーズ構成の吉田玲子さん脚本による「バッドエンドけいおん!」を浄化する物語〜無彩限のファントム・ワールド第7話の感想(ネタバレ注意)
→『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想
→『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について
【関連リンク3:京都アニメーション作品のこれまでの"テーマ的な"連動・変奏の過程がよく分かる『ねざめ堂』さんの記事】
→『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂
→『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)