さよなら妖精 (創元推理文庫)
米澤 穂信
東京創元社
2006-06-10


 米澤穂信さんの小説『さよなら妖精』の書評です。
 ◇◇◇

 守屋路行(もりやみちゆき)、太刀洗万智(たちあらいまち)、文原竹彦(ふみはらたけひこ)、白河いずるのいわば日本の藤柴高校の「内」の「共同体」に、「外」の世界、ユーゴスラヴィアから異国人のマーヤがやってきて、一種の異文化間コミュニケーションが描かれていく本作。

 ただ、守屋側が異国人であるマーヤのこと・ユーゴスラヴィアのことを理解していく、逆に異国人であるマーヤが守屋のこと・日本のことを理解していく……という分かりやすい構図の他に、逆説的に、マーヤとの出会いによって守屋側の視界が変わり、むしろ守屋が守屋自身のこと・守屋の身近な人間のこと・日本のことに関しても理解していく……というベクトルも描かれています。

 前者が「表」の異文化交流で、後者が「裏」の(あるいは「真」の)異文化交流ですね。

 本当の異文化は、自分自身だったり、自分の身近な人達だったり、自分の国だったりする。そういう存在について、意外と我々は理解していない……ということがあぶりだされていきます。

 象徴的なのは、守屋にとっての身近な人、万智のことを、守屋は最後まで理解できていなかったことに気づくこと。

 結局、守屋は異邦人マーヤのことが理解できないまま別れの時をむかえてしまったと展開していくのですが、同時に、守屋は身近な太刀洗万智のことも理解できていなかったということが立ち現れていく構造になっています。万智がマーヤの相談相手になっていたことに守屋は気づいていませんでしたし、それ以上に万智がマーヤに向けていた感情についても理解できてはいませんでした。万智が守屋に向けていた気持ちに関しては、ラストシーンでさえも理解できていないような趣です。

 ただ、結局理解できなかった……という絶望的なディスコミュニケーションの物語だったかというと、そういったディスコミュニケーションを背景にして、奇跡的に相手の気持ちに近づけた瞬間の美しさがあぶり出されていく描き方にもなっています。劇中で印象的に用いられている比喩でいえば、「橋」がかかった瞬間の奇跡です。一面の黒色の中で綺麗に映える、白色のような瞬間は、きっとあるということです。

 「雨が降っているのに傘を差さない男のひと」「郵便ポストに印された〒マークの意味」「紅白大福に込められている哲学的な理由」……といった謎の解明を通して、守屋が当たり前だと思っていた身近な「日常」を再解釈していくしていくことは守屋にとって大事な時間であったであろうし、もちろん、マーヤにとっても日本の「日常」の意味(シニフィエ)を理解していくのは、喜びであったに違いありません。

 マーヤにとって、日本の「日常」の中に「奇跡」的なものを見出したシーンは主に二か所くらいをピックアップしたいところです。

 一つは、「この橋渡るべからず」にまつわる一連の物語と象徴。

 異なる民族同士の対立と融和の狭間にあった当時のユーゴスラヴィアを背負っていたマーヤにとって、「この橋渡るべからず」、「橋」を渡る時は「端」ではなく、堂々と渡って行って良いという文化的枠組みは、ユーゴスラヴィア内の共和国間の、あるいは民族間の「架け橋」を模索していたマーヤにはとても希望的に映っていたように描かれています。

 もう一つは、白河いずるの名前に関するシーンで、「逸」と「留」、その場からいなくなるという意味の「逸」と、その場にとどまるという意味の「留」、その二つの矛盾する要素を、「いずる」という「やまと言葉」、「ひらがな」で同時に成立させることができる……という日本の精神に、まさに当時のユーゴスラヴィアの独立(離れる)の力学と、統合(留まる)の力学の狭間で苦悩していたマーヤは、希望的なものを見出したのは想像にかたくありません。

 日本の精神と書きましたが、もう少し踏み込むと、これは仏教方面の中でも、華厳経方面(大乗仏教方面)の考え方です。「一」と「多」は矛盾する概念ですが、華厳経だと、「一即多・多即一」といった概念があって、両者は矛盾しつつも同時に存在できる……みたいな包摂的な捉え方が可能になってきたりします。少し論理学などの用語も使ってよいのなら、「排中律」の排除、ということです(西欧合理論だけだと、これが難しいのです。)。

 ここに、独立した国と独立した国が、相反するという力学で戦争に突入していった当時のユーゴスラヴィア情勢において、もしかしたら「多(ユーゴスラヴィアの統合)」と一「(一つ一つの共和国の独立)」を、同時に存在させることも可能だったのではないか? という、西欧合理論と東洋的・仏教的思想との接合というかたちでの解決という、一つの理想をマーヤというキャラクターの視点を通して、作者が、あるいは読者が見ていたのではないか、というのは、少し深読みが過ぎるでしょうか。

 物語の舞台はユーゴスラヴィアにおいてスロヴェニアの独立戦争(十日間戦争)が始まる頃の1991年ですが、2017年の現在、欧州に、アメリカに、エトセトラに、再び移民の問題をはじめとする、ある「共同体」とある「共同体」の接触にまつわる問題が表面化しているのを鑑みるに、個人的には昨今のむやみに日本を賞賛するような書籍の類は好きではないですが、実際に仏教的なものを輸入しつつ、「両部神道」的に日本の神道とも同時に存在させながら歴史を作ってきた、遠くは仏教の華厳経とも相補い合うような、「一即多・多即一」にして、「和」であるような精神。日本のこういうところの精神、もっといって哲学は、現在の世界に対して何らかの知見を提供できるかもしれないとは、感じております。

 物語は、でもそんな「理想」には間に合わなかったというエンディングではあるのですが、こと異文化理解、守屋がマーヤを理解する……という射程においては、守屋は推理・論理という道具を用いて、マーヤが帰国した後に、マーヤの理解に迫る……ということをやってみせます。この、丁寧に資料を集め、推理を構築し、他者への理解を目指す……という志向性は、何事もフローに流れ過ぎて、フェイクニュースに簡易に反応してディスコミュニケーションの拡大再生産がSNSを媒介に拡散していくといった2017年の現状では、とても希望的な態度に思われます。

 身近にいた万智のことも理解できていなかった守屋は、たとえユーゴスラヴィアに行ったとしても、マーヤの「日常」は理解できなかったことと思われます。物理的な距離だけが「理解」の溝を埋める訳ではないのです。時には、推理、論理という建設的な構築の過程で、他者の「日常」へと丁寧に橋を架けてゆくということが、物理的に近くにいることよりも大事だったりする。

 個人的には、まさに守屋と似たような「行かなくては」というような衝動で、15年前に実際にスロヴェニア(旧ユーゴスラヴィアの一国)の地に渡って一ヶ月弱滞在してきた経験があり、そして、それはそれで貴重な得るものがあったので、この「実際に行く」と「行かずとも推理や論理を駆使する」も、それこそ、相補い合う、同時に存在できる、大事な他者・異文化への理解のアプローチかと解釈しています。

 刊行は2004年ですが、2017年の現在にも視座を提供してくれる、綿密でしなやかに構築されている、そして切なさを伴った物語です。

 意外と、米澤穂信さんの最近の仕事を追ってなかったので、2004年でこれなら、現在はどういう作品を書いておられるのだろうと、個人的には過去からのブリッジにもなった読書体験でありました。

 まずは、近年の米澤穂信さんの代表作、『満願 』から読んでみようかな。

満願
米澤 穂信
新潮社
2014-03-20


さよなら妖精【単行本新装版】
米澤 穂信
東京創元社
2016-10-31


 テーマ的に、タイムリーにアニメが放映されている京都アニメーションさんの『小林さんちのメイドラゴン』と重なる部分がある作品でしたので、そちらの感想にもリンクを張っておきます。↓

『小林さんちのメイドラゴン』の感想へ

米澤穂信『氷菓』の感想へ
京都アニメーション版『氷菓』の感想へ