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 アニメ『小林さんちのメイドラゴン(公式サイト)』第6話「お宅訪問! (してないお宅もあります)」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 今回は、


A. 今話で描かれる四つの「内」のコミュニケーションについて
B. 本作で描かれる「共同体」同士の相互貫入について
C. 本作に見られる「繰り返し」のモチーフについて



 の三本立てでお送りします。


A. 今話で描かれる四つの「内」のコミュニケーションについて

 今話でも、本作でこれまで繰り返し描かれてきた、ある「共同体」に「異質」が入ってきて、新たなる「内」のコミュニケーションを形成し始める……という物語が四つ描かれておりました。

 「家」という「共同体」的には描かれてるのは三つなのですけど、最初の「才川さんち」が、「部屋」で分かれて、「リコとカンナ」、「ジョージーと小林さん(とトール)」の二つに分かれるので、合計では四つで見ていってみましょう。


1. ジョージ―、小林さん、(トール)の「内」のコミュニケーション

 「メイド」の話題によるジョージ―と小林さんの「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」が描かれます。

 前提としての、「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」と「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」という二つのコミュニケーション様式の存在と、その違いについて詳しくは第1話の感想を参照です。

 そして、同じ「共同体」の「内」では、同じ「言葉」を使うよね……ということを第一話から強調して描いていた本作ですが、ここでも「メイド関係の専門用語」をジョージ―と小林さんが共有して話しまくる、というのが描かれます。「ダージリン」「ヴィクトリア朝」「アンティークのカップ」とか、そういう「言葉」ですね。

 そして、そのジョージ―と小林さんの「内」のコミュニケーション(「言葉」)に、トールは入れません。第1話の小林さんと滝谷さんの「メイド」談義に入れないトールの図、再び(繰り返し)という図ですね。

 久々に、この図も描いておきましょう。ここでの「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」の構図はこんな感じですね。↓


[ジョージ―→←小林さん] トール


 しかし、「繰り返し」をモチーフにしながら徐々に全体の「色彩」が深まっていくという描き方をしている本作(というか京都アニメーション作品)、第1話の時と違って、それでも、小林さんとトールの関係には、この程度でどうこうならないちゃんとしたものがある、というのが意識される作りになっています。それは、続く才川リコとカンナの関係との対比、および第1話の小林さんと滝谷さんのシーンとの対比で浮かび上がってきます。今回は、自分を置いてメイドトークされても、トールも別にジョージ―を威圧にかかったりはしないのですね。トールの内部でも「受容」の態度の「色彩」が深まってきているのが見て取れます。


2. 才川リコ、カンナの「内」のコミュニケーション

 こちらの部屋では才川リコさんとカンナの「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」が行われています。

 ツイスターゲーム、膝の上に抱っこしてゲーム、あわや肉体関係に!? と、過度なスキンシップ、過度な肌と肌の触れ合いが描かれますが、逆説的に、だけど「才川リコとカンナはまだ小林さんとトールのような関係にはなれていない」というのがあぶり出される作りになっています。

 異文化コミュニケーションが題材にあると思われる作品ですが、肉体的に近づいたからといってそれと比例して相互の理解が深まっていくわけではないのですね。ちゃんと、むしろ肉体的な接触は(ギャグチックに)拒否してる小林さんとトールの関係の方が、この時点での才川リコとカンナの関係よりも深いと「分かる」ようになってるのは演出の妙だと思います。


3. 翔太くん、ルコアさんの「内」のコミュニケーション

 前項の、「過度な肌と肌の触れ合い=相互理解が進むというわけではない」という話が、今度は翔太くんとルコアさんの関係で描かれます。こっちも、ルコアさんは一緒にお風呂入ろうとか肉体的な距離を詰めようとするのですが、翔太くんはルコアさんを悪魔と認識しており、精神の理解の方でディスコミュニケーションが発生しています。

 これも、異文化理解とはいうけれど、いきなり一気に距離を詰めればよいという話ではない、みたいな部分です。

 個人的に、この辺りの微細なニュアンスを描くのがかなり京都的だなと思ったりしました。一緒にお風呂に入れば分かり合える!(キリッ)みたいなことを言われたら、そっとお茶漬けを出す。それが京都の人というイメージがあります(え)。


4. 滝谷さん、ファフニールさんの「内」のコミュニケーション

 そして、「2」「3」に比べて、かなり「小林さんとトール」の関係に近い「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」として描かれていたのが、こちらの滝谷さんとファフニールさんの関係だと感じました。

 滝谷さん、ちょっとファフニールさんのことを「ファフくん」って呼んでみたり、徐々には交流を深めていくのですが、急速に接近もしない。

 才川さんと翔太くんが子供なのに対して、小林さんと滝谷さんは大人なのでその辺りのコミュニケーションの熟練度に差が出るのは当たり前とも言えるのですが、「受容」の態度のふところが小林さんと滝谷さんは深いです。肉体関係(笑)がないからと焦ったりもしない。ただ、「居場所」を提供して淡々と「日常」を過ごす、そういう「受容」の態度もある。

 異文化コミュニケーションが題材にあるであろう本作。その中で、「共同体」から排斥されるような存在にも「居場所」をというようなモチーフは何重奏にもなってます。

 ドラゴンが「異国人」の比喩なのはもちろんですが、第2話の背景に「身障者用」の「場所」がさりげなく描かれている描き方などからは「障害がある人」、そして、ここの描写だと「引きこもりの人」くらいも想像できるようにしているのかもしれません。

 ネット上だと「引きこもり」状態のファフニールさんはバカにされてしまうのですが、滝谷さんは何も言わずただ「受容」し続けています。

 そういう過程を経た上で、最後に「ファフくん」という呼び名(=「言葉」)を滝谷さんとファフニールさんで共有するようになる。第1話ではトールに「人間殺せ」(排他)とアドバイスしていたファフニールさんも変わり始めているわけで、そのきっかけは滝谷さんです。

 前回の感想で、このように「共同体」から排斥されるような立場の人に一時的にでも「居場所」を与えてあげられる「受容」の態度を持った小林さんや滝谷さんのような人を「境界領域」者と呼びましたが、ここからファフニールさんも少しずつ「受容」の態度を獲得していくのは想像できるわけで、やはり「境界領域」者が増えていく「共同体」モデルを模索している作品だと感じるのでした。


B. 本作で描かれる「共同体」同士の相互貫入について

 「家」「商店街」「学校」「会社」など、複数の「共同体」が出てくる本作。

 現実もそうですが、一人の人間が一つの「共同体」にのみ属しているわけではなく、我々は複数の「共同体」に属していて、それぞれの「共同体」が互いに関係し合っています。

 今話だと「小林さんち」「共同体」の小林さんと、「翔太くんち」「共同体」のお父さん(専務)が、実は「地獄巡システムエンジニアリング瀧ノ口事務所」「共同体」(会社「共同体」)で一緒だったと明らかになるくだりです。

 ついつい、我々は一つの「共同体」に閉じこもりたい、その一つの「共同体」の「内」以外はシャットアウトしてしまいたい! というような願望も抱いてしまいがちなのですが、そっちの方に行ってしまわず、ある程度「共同体」と「共同体」の間に「風通しの良さ」があることを、良いことと捉えていこうという試みだと感じました。

 いかに小林さんが「受容」の態度を持った「境界領域」者だとしても、たとえば「小林さんち」「共同体」の「内」にだけ閉じこもって、他の「共同体」と何の関係もない状態だったとしたら、それ以上は何も広がりがありません。一人の「特別」な小林さんがトールとカンナまでは「受容」できるかもしれませんが、それ以上、「世界」には広がっていかないです。

 ところが、小林さんが家「共同体」と同時に会社「共同体」にも同時に属していて、会社「共同体」内部で滝谷さんと「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」を形成することで、「境界領域」者としてのあり方が伝播し、「境界領域」者が小林さんと滝谷さんの二人になりました。そのおかげで、ファフニールさんもまた「滝谷さんち」に「受容」されることが可能になりました。小林さんも滝谷さんも、複合的に「共同体」と関わっていることが、ここでの肝になります。

 このモデルは、かなり多弾道的、立体的に拡散、複合化、多次元化が可能なのが希望的なことで、今話でさらに小林さんと専務もまた会社「共同体」に同時に属して「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」を形成しているとすると、専務もまた「境界領域」者となり、今度は専務の「家」「共同体」の方、「翔太くんち」「共同体」もまた「受容」の場となる可能性が出てきます。

 『たまこまーけっと』とか、ある「共同体」(うさぎ山商店街「共同体」)が、その「外」と通気し合ってることが大事だよ、というところまでを描いていた京都アニメーション作品はこれまでもありましたが、本作ではさらに「共同体」同士が、「内」と「外」を相互貫入しながら、「境界領域」的なものを立体化、多次元化していく……というモデルまでが描かれ始めていて、とても面白いなーと思って視聴しているのでした。

 「共同体」に関して、「固定」の視点から描くところから進んで、「相互関係」の視点から描き始めているのです。


C. 本作に見られる「繰り返し」のモチーフについて

 前回の感想で、第5話ではギャグ文法としての「てんどん」が「繰り返し」のモチーフで使われていて、そのような表現は京都アニメーション作品に広く通底する「繰り返し(ループ)」のモチーフにまで接合が可能だ、ということを見てみました。↓


パッヘルベルの『Kanon』のように「繰り返し」ながら「受容」の「共同体」は波打つように少しずつ豊かになってゆく〜『小林さんちのメイドラゴン』第5話の感想


 今話で「繰り返し」のモチーフで用いられているのは「雨の日」です。

 最後に「晴れ」て終劇するのか? と予想できそうなところを、最後まで「雨の日」のまま終劇するのがまさに京都アニメーション作品における「繰り返し」モチーフの哲学で、前回確認した、『Kanon』に色濃く立ち現れている、「繰り返し」にまつわる佐祐理さんの台詞のシーンを再び引用しておいてみます。


 「カノンです。パッヘルベルのカノン。 同じ旋律を何度も繰り返しながら、少しづつ豊かに、美しく和音が響き合うようになっていくんです。 そんなふうに、一見違いのない毎日を送りながら、でも、少しづつ変わっていけたらいいですよね」(倉田佐祐理)


 「繰り返し」ではあるのですが、単調ということではなくて、「ループ」するうちに少しずつ「色彩」のようなものが深まっていって、徐々に波打つようにトータルでは良くなっていく……という世界観・モチーフですね。

 鑑みるに、繰り返される「雨の日」ですが、まったく無意味かというとそんなことはないのでした。

 「雨の日」という「日常」の大事さ。

 晴れた! 逆転! やった! みたいな劇的な「動」の物語はなくても、「雨の日」に静かに、たとえば滝谷さんとファフニールさんの「日常」を通して、「世界」の中で「受容」の態度は進んでいってます。一見変わらないような繰り返される「雨の日」の中、滝谷さんはファフニールさんを「ファフくん」と呼ぶようになった。世界全体の「色彩」は少しずつ深まっていっています。『Kanon』の佐祐理さんが言うところの「和音」は少しずつ重なり、響き合い、そして徐々に変わっていっているのです。

 このパッヘルベルの『Kanon』イズムとでもいうような、「日常」と「繰り返し」にまつわる京都アニメーションイズムが、本作は特に色濃く描かれている作品ですので、ついでにもう少し見てみましょう。

 オープニングにおけるエルマさんの金太郎飴のシーン。

 まさに「繰り返し」モチーフですが、やはり、ちょっとだけ「変わって」いるのが入っていたりします。

 オープニングにおける、人間回転浮遊のシーン。「日常」を生きている人々が、回転=ループ……同じ運動を繰り返しているのですが、少しずつだけ上昇(変化)していきます。

 オープニングにおける走るトールのシーン。走る軌道が「円」で、分身を「繰り返し」ながらも、最後に正面にくるトールが一番「色彩」が「深い」というようになってます。

 エンディングにおける曜日・惑星モチーフ。繰り返される「日常」の一週間の中で少しずつ変わっていくのが描かれていますし、惑星はもろに「円」「繰り返し」モチーフです。地球、どうして宇宙の果てまで一気に進展していかないの! ということではなく、太陽の回りを「繰り返し」回っている地球での「日常」の中で、徐々に「世界」に「色彩」が深まってゆくのです。

 異文化間のコミュニケーションであるとか、排斥された存在の居場所の問題であるとか、もっとざっくりとは平和とか、急には達成できません。そこを一足飛びに解答に急接近しようとすると、かえってひずみを生み出すことも多々あるのです。ルコアさんがいきなり翔太くんに裸でせまっても、それも困る、というように。

 だから、「繰り返し」の過程、「日常」こそを大事で「輝き」を持ち得るものとして捉えたい・描きたい。「繰り返し」の中で、少しずつ深まってゆく「色彩」こそを捉えたい。

 『CLANNAD』のループする「世界」。『けいおん!(!!)』の入学と卒業を「繰り返し」ながら存在し続ける「学校」。『たまこまーけっと』エンディングの「回る」レコード。それこそ作品をまたいで「繰り返し」ながら、でも少しずつ和音を重ね、「色彩」を深めてゆく、京都アニメーション作品の哲学が、最新作『小林さんちのメイドラゴン』の中でも繰り返されているのです。一つの作品は全体であり、全体は一つの作品に写像されており、一方で作品が進むことに変形も加わっていきます。

 楼閣が実は大楼閣の一つで、大楼閣も大大楼閣の一つで、でも極大は同時に極小でもあって……みたいな、本当仏教方面の世界観ですね。『境界の彼方(感想)』とかはもろにブディズム(仏教)方面の要素が見られますが、もっとラディカルに踏み込んでいくなら、『中二病でも恋がしたい!戀』では、七宮智音が「魔法魔王少女ソフィアリング・SP・サターン7世」を名乗っており、「ソフィア」は、キリスト教圏と関連する西欧合理論的な世界観で重要な意味を持つ聖母「マリア」に対して、より「東方的」、「全体性」を象徴するような女神の名前です。エジプトだと「イシス」になりますし、インドだと「プラジュニャー・パーラミーター」となります。

 参考文献。

東方的 (講談社学術文庫)
中沢 新一
講談社
2012-10-11


 既にその頃から、京都アニメーション作品のベクトルとしては、象徴的に表現するなら「マリア」的に傾き気味だった世界(競争原理・合理論偏重・「個」への分断化)に、「ソフィア」的なもの(「楼閣」的「共同体」モデル・矛盾の包摂・「全体性」の回復など)を復元してバランスを回復してゆく方向性だったと見てとれます。そうなると、現段階では「東方的」「仏教的」、そして(概念としての)西方と東方の「境界領域」としての「和」=「日本的なもの(の可能性)」という物語になってきてるのだと思います。

 どういう感想記事だという感じですが、今回もラストに仏教の中でも「華厳経」の、善財童子が大楼閣の中に無数の楼閣があることを見つけたシーンを引用しておいたりしてみますよ(笑)。


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「これらの無数の楼閣は、互いに侵害し合わない。それぞれが他のすべてと調和して個としての存在を保っている。ここには、一つの楼閣が他のすべてと個的または集合的に融合するのを妨害するものはない。完全なる混合状態にありながら、しかも完全なる秩序を保っているのである」

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 参考文献(引用元)。

華厳の思想 (講談社学術文庫)
鎌田 茂雄
講談社
1988-05-02


 本作の終盤では、「共同体」のモチーフとしても「繰り返し」のモチーフとしても、シンボルとしてこれに近い、「楼閣モデル」的な世界観が浮かび上がってくる気がしてきております。

→Blu-ray

小林さんちのメイドラゴン 1 [Blu-ray]
田村睦心
ポニーキャニオン
2017-03-15


→原作コミックス



→前回:パッヘルベルの『Kanon』のように「繰り返し」ながら「受容」の「共同体」は波打つように少しずつ豊かになってゆく〜『小林さんちのメイドラゴン』第5話「トールの社会勉強!(本人は出来てるつもりです)」の感想へ
→次回:『小林さんちのメイドラゴン』第7話「夏の定番!(ぶっちゃけテコ入れ回ですね)」の感想へ
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