相羽です。

 僕もクラウドファンディングに参加させて頂いていたアニメーション映画、『薄暮』。


参考:『薄暮』制作のクラウドファンディングに参加しました


 昨日(11月30日)、ティザームービーが公開されました。↓

 『薄暮』には山本寛監督が書いた原作小説があります。(クラウドファンディングに参加した人には紙の文庫本サイズの書籍が届けられています。)

181201hakubo

 以下、原作小説から僕が好きな部分をちょっと引用。↓(ネタバレ注意です)


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 小六の時に、どうして自分は生きているのだろう? どうして自分は自分であって、お姉ちゃんでもなければお父さんでも、お母さんでもないの? テレビの中で顔を粉塗れにしてふざけているお笑い芸人でもなければ、今日駅前のパチンコ屋の前でぶつかって睨まれたあのおばさんでもないの? という疑問で眠れなかったことがある。
 あの夜は、怖かった。
 自分という存在がどこまでで、どこからが他人なのか、世界と自分との境界が解っているようで、まだ解ってない気がする。自分の皮膚一枚が、どれだけ自分を護ってくれているのだろうか。今にも中の臓腑が飛び出して、理科準備室の人体模型みたくなってしまうんじゃないだろうか。
 だから目の前に見える世界が、時々ぼんやりと霞む。
 お風呂に入っている時、自分のちょっとだけ膨らんだ胸を見て、どうして男じゃないんだろう? とか。
 私はどうして夜になると家の前に集まってくる野良猫に生まれてこなかったんだろう? とか。
 え、これはもしかして夢? 私、生きてる? 誰がそれを証明するの?
 うわー、頭おかしい。そんなこと考えてる自分って、キモいよね。
 周りには決して言えない、私だけの秘密。こんなの相談できないし。

 山本寛『薄暮』(アイズクライム文庫)より


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 主人公の佐智が「どうして自分は自分であって、お姉ちゃんでもなければお父さんでも、お母さんでもないの?」と言ってるのは、哲学の専門用語でいう「自同律(じどうりつ)」に関してですね。


自同律:「わたしがわたしであること」


 「愛城華恋と再生産」の記事でも書きましたが、予備知識なしだと、わたしがわたしであるって、そんなの当たり前じゃない? って感じかもしれないですが、その「当たり前」を疑ってみる哲学なり作品なりというのは、とても昔から存在しています。
 わたしは、わたしではないかもしれない? 的な。

 神話のような非常に古くから伝わる話にもこのようなモチーフの話はありますし、日本の文学史に目を向けてピックアップするなら埴谷雄高(『死霊』など)とかですかね。

死霊I (講談社文芸文庫)
埴谷雄高
講談社
2014-05-16


 「わたしがわたしであること」を自明のものとはせずに攪拌(かくはん)して、たとえば「わたしはわたしではないかもしれない?」とか、本作の要素的には「わたしはあなたかもしれない?」とか、不思議な感覚を表現していく物語系譜です。


 攪拌(かくはん)=かきまぜる……こと。


 あくまで僕の解釈となりますが、『薄暮』はかなり存在論的な作品でもあるのですよ。

 震災後の福島を舞台に日常や恋愛を描いている部分と、存在論的なものを描いている部分とがあります。

 少女と少年が出会う、という作品ですが。

 少女、小山佐智(こやま・さち)にしろ、少年、雉子波祐介(きじなみ・ゆうすけ)にしろ、二人の出会いそのものが、それぞれの存在証明と存在証明が出会ったのだ……といった趣(おもむき)がある作品です。(さちの存在証明が「バイオリン」で、祐介の存在証明が「絵」ですね。)

 なんで、少年少女がこんな存在論的なことを考えているかというと、小さい頃に存在が揺さぶられるような体験をしたからというのもあると思います。

 上記引用部分の佐智が「小六の時」というのも、何かしら東日本大震災の前後くらいの時期の頃というのが連想されるようになってると推察します。

 私事で恐縮ですが、僕は震災後の仙台で塾講師も七年くらいやっているのですが、かなり哲学的なことを(も)考えている若者(高校生くらい)とは、けっこう出会ったことがあります。彼・彼女なりに深く思索しているのです。(もちろん、全員ではないですけどね。)

 「自同律」の観点からいえば、『薄暮』では中盤、佐智は祐介ではないし、祐介は佐智ではない、というのが突きつけられる展開が描かれます。(「自同律」の攪拌を感じたりするのは思春期の一時だけで、やがて全ては合理論に還元されかける……といった感じでしょうか。合理を突き進む方向にだけいけば、恋愛は無意味となります。しない方が、傷ついたりもしないかもしれません。)

 でも、個と個は完全に分断された存在で、あなたと私はまったく違っているし、何も伝え合うことはできない……というのでは、やはり寂しい……。

 このある種の孤独の感情をトリガーに、終盤に向けてグンっと盛り上がって、驚くほどストンと終劇します。美しいです。

 「クラウドファンディング用特報」の、↓

 キャッチコピー、


 この世界には、まだ愛がある。


 も、個人的にはかなり好きです。

 アニメーション映画の公開は2019年を予定されているとのこと。

 あんまりお金はないとか(え)、そもそも仙台近郊の映画館で上映されるのかとか、若干のハードルはありますが、これは無事公開までたどり着いたら万難を排して観にいきたいと思っているのでした。

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