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 相羽です。

 アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期(公式サイト)第2話「重なる色」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 前回の第1話で鐘嵐珠(ショウランジュ)は、


・アイドルとファンは支え合いの関係であるとする「虹ヶ咲」に対して、支えは必要ないという思想を表明する

・女性性の集まりである「虹ヶ咲」に対して(ある種の)男性性を突きつける



 と、

 「強い」存在として登場してきたかのようにみえたりしたのですが。


参考:鐘嵐珠(ショウランジュ)加入による「虹ヶ咲」の男性性の試練


 今話では、彼女は潜在的に「再びつながりたい気持ち」を持っているキャラクターだということが見えてきました。

(見破ったのは、主にエマ・ヴェルデさん)

 ラストの公園での、エマ・ヴェルデ、近江彼方(このえかなた)、天王寺璃奈(てんのうじりな)、中須かすみら4人の会話にて顕著ですが、浮かび上がってきたキーワードは「つながり」です。


 「『つながり』、か」(エマ・ヴェルデ)


 ここでいう「再び」「つながりたい」とはどういうことなのか?

 特に「再び」という部分が大事で、これは、アニメ第2期冒頭の時点では、鐘嵐珠は、


・かつてはいっしょだった
 ↓
・現在はバラバラになってしまった(分断)



 という状況にあるということです。

 後述する、もうちょっと大きな社会論・時代論的な話にも繋げられる部分でもあるのですが、とりあえずこの「かつていっしょだった」という部分に関しては、「幼なじみ」という要素が強調されて描かれています。

 アニメ2期のキーキャラクターと思われる、鐘嵐珠と三船栞子(みふねしおりこ)は「幼なじみ」です。

 「幼なじみ」はモロに「かつて(子どもの頃という過去)」要素ですから、鐘嵐珠も、かつては「虹ヶ咲」と同様「いっしょ」派の女の子であったことがうかがえます。

 ところが、ちょうど栞子と離れて香港にいる時期に考え方が変わり、「一人」派になった……という流れが推定されます。

 そのことを踏まえて、現在の嵐珠の人間関係の象徴として立ち現れているのが、ミア・テイラーとの関係です。

 ミアの発言をそのままとるなら、

 嵐珠はミアの楽曲を歌いたいだけ、ミアは嵐珠を通して自分の楽曲を広めたいだけ、という関係です。

 かなりドライというか、印象としては個人主義的で、競争主義的で、資本主義的な香りがする人間関係です。

(「広めたい」、というのは、大量生産・大量消費が土台にあるバリバリ資本主義消費文明側の力学ですからね。そして、どちらがより広められたかと「競争」するのです……。)

 ここまでをざっくりとまとめると、鐘嵐珠の対人関係の歴史は、


A:【過去】:ウェットな「いっしょ」にいたい「幼なじみ」の関係:栞子

B:【現在】:ドライな「功利的」で「個人主義」的な関係:ミア



 となります。

 ここから、未来において、再び「A」的な関係、「再び」「つながる」関係へと向かっていく物語が、ひとつアニメ『虹ヶ咲』2期の物語としてはありそうです。

 その、これから向かっていく未来の鐘嵐珠の人間関係を仮に「C」として素描してみるなら、「A」と「B」が調和したような、


C:【未来】:「いっしょ」と「個人主義」が同時に成立しているような「再びつながった」関係:栞子とミアの両方を含み得る新型「虹ヶ咲」共同体のメンバー?


 といったところでしょうか。

 どうして、鐘嵐珠のような強い(ようにみえる)人間に、そのような「再びつながりたい気持ち」が生じるのか。

 ここから先はしばらく、


・現代とはどういった時代なのか

・現代の「共同体(コミュニティ)」において「物語」とは何なのか



 といった少しだけ込み入った話なので、読みたい人だけ読んで、基本的には読み飛ばして頂いても構わない類の文章となりますが。

(特に僕のオリジナルの見解というものでもなく、評論や学問の世界で語り尽くされていることを、ざっくりとまとめてみた程度の話となります。)

 ものすごくざっくりとは、現代(ポストモダン)とは、「大きな物語が消失した時代」と言われています。

 この場合、「大きな物語」とは、だいたいの場合「科学」や「理性」を指します。

 みんなが信じていた「大きな物語」、「科学」や「人間の理性」は最高だし信じられる! ……という感覚が色々あってなくなってしまったのが現代、ということなのです。

 みんなが信じていたものがなくなってしまうとどうなるのか?

 そう、人間は「バラバラ」になります(今回の記事の文脈でいうなら、この「バラバラ」になってる現代人のポジションが鐘嵐珠)。

 ある程度までは、「バラバラ」になるというのは、個人化ということですから、個人主義最高! ……みたいなノリで現代もこれまで進めてきてみたのですが、いい加減、どうもそれではヤバイらしいというのが分かってきたのが最近だよ、という話なのです。

 何故なら、人間という種は、「バラバラ」、つまり「孤独」に耐えられないようにできている生命体だから。(これは、近年の脳科学でも裏付けられています。)

 よって、「バラバラ」の状態から、何とかまた「集まる」状態へと向かっていかなくてはならない、いわゆる「共同体の再構築」という方向を意識していかなくてはならない……

 ……というのが、ここ10年・20年で、「一度バラバラになったもろもろが、再び集まるお話」という形式の物語が大量につくられている背景です。時代的なニーズでもあるということです。

 『ラブライブ!』シリーズも、だいたいこっちの方向で物語をつくってきたシリーズです。

 で、「バラバラ」の状態から「再び集まる」方向にどうやってもっていくのかといったら?

 そう、コミュニティ化です。

 2022年の今や、世界は分断化からの反動でもう「孤独」を何とか埋めたくて埋めたくて、細分化されたたくさんのコミュニティに分かれているのです。

 で、各々のコミュニティの中でしか通じない価値観、通じない言葉で意志疎通し、「孤独」を埋め合っている。

 『ラブライブ!』が好き! というような方もしかりです。いわば、「ラブライブ!」コミュニティの一員であるから、この文章が「読める」(=意思疎通できる)わけです。 (逆に言うと、同じコミュニティの人以外とは、意思疎通が難しくなってきているのが最近です。)

 で、で、「コミュニティ」には、シンボルが必要なわけです。シンボルというか、リーダーというか、もっというと、「コミュニティのメンバーが共有しているコアな価値観」ですね。

 近代以前は、それは宗教が役割を担っていました。

 まぎらわしいですが、


 近代以前は宗教を中心に大きな共同体が保たれていた。
 ↓
 それを解体して、科学や理性信仰という近代を生み出した。
 ↓
 それがバラバラになって現代(ポストモダン)になった。
 ↓
 我々が今いるのは、さらにその次(細分化されたコミュニティ)。


 ……という順番です。

 つまり、現在(2022年)は、また小さなコミュニティの中心に「信じられるもの」を置くという、近代より前の宗教性が重要視される時代に戻ってきているということです。

(ここでの「宗教」という言葉はキリスト教、仏教のような特定の宗教を指すものではなく、「特定の価値観を信じて人々が集う営み全般」くらいの意味合いで使っております。)

 「ラブライブ!」のコミュニティですと、半分笑い話っぽくしながらも、わりと真顔でステージの上のスクールアイドルたちを信仰してコミュニティが形成されているという側面があります。

 『ラブライブ!』プロジェクトの中心となる声優さんたちがステージの上で歌い・踊る様子は、託宣(たくせん)を受けた巫女が壇上でイニシエーション(儀式)を行なっているがごときで、彼女たちを中心に出来上がっている輪は、近代より前の宗教共同体を想起させるような趣もあったりします。

 ……というような時代的(現代的)な遠景も含めて生じている、鐘嵐珠の潜在的な「再びつながりたい気持ち」。

 そこに対して、「虹ヶ咲」のエマ、彼方、璃奈、かすみの4人が働きかけると今話ラストで決めるのですが。

(ちなみにこの4人は、アニメ1期の個人エピソードが「人とのつながり」が題材になっていた4人です。)

 ここが今話のクライマックスで、「幼なじみ」と同様の、「かつていっしょだった」(過去)要素として、「児童時間の公園」が出てきます。

 4人の会話の舞台となる「公園」は、明らかに高校生の4人がブランコをしたり滑り台をすべったりするには(固定観念的には)アンバランスなのですが、ここは、「子どものころに『いっしょに』友だちと遊んでいたような場所」の記号として機能しています。

 エマ、彼方、璃奈、かすみの4人も、それなりに個人主義的・大量生産・大量消費文明的・資本主義的な現行世界の中で大人になり、「バラバラ」に過ごしていた(ブランコのペースが最初は4人でズレている=個人主義の状態の比喩。)。

 しかし、今、鐘嵐珠に伝えたいことがあるという点で、イノセントだった子ども時代(「公園」や「遊具」が象徴)のように再び「いっしょ」になりたいという気持ちが生まれてきている。ちょうど、アニメ1期最終回で「バラバラ」だった9人が高咲侑(たかさきゆう)に想いを届けたいという気持ちを共有したのと、同じように。

 遠い場所にいたのに、自分たちの「スクールアイドルフェスティバル」の動画を観て、近くにいたいと海を越えてやってきてくれた女子。

 何の縁か、あるいは「たましい」の世界(そういったものがあるとして)では、彼女も「虹ヶ咲」の面々の近くにいたのか。よくは分からないけれど、現在の世界の力学に任せて容易に断ち切ってしまうには、徳が溢れて過ぎてるお導き。

 気が付けば国も仲間も家族でさえも「バラバラ」になってしまう殺伐とした現行世界だとしても、もし鐘嵐珠の「たましい」が「いっしょにいたい」、「再びつながりたい」と希求しているのだとしたら、それは叶えてあげたいと4人は願った。

 その想いを共有した。

 かくして、「『ライバル』だけど『仲間』!!」というキャッチコピーのもと、基本的には「バラバラ」がコンセプトからはじまった『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』という作品において、エマ、彼方、璃奈、かすみの4人がユニットを結成。鐘嵐珠に想いを届けるために合同ライブは4人でステージに立つという展開に。

 素敵な感じに、「バラバラ」になって破綻した現代人の精神に働きかける、「再び」「つながる」「物語」として成立しています。

 前回から、「物語」というものは読者(アニメの場合は視聴者)が、ある程度架空である物語に没入して、物語内で描かれる精神の流れを疑似体験し、物語内の擬似的な「癒し」の過程を現実によせて体験したりする、という話を書いていたりしますが。

 今回の、現代人(第2話までだと、象徴として描かれているのは特に鐘嵐珠)の苦悩たる、「バラバラ」になった感覚が、徐々に「再びつながる」感覚へと向かっていくという変遷も、トータルでは調和とかバランスの回復という事項でありますので。

 やはりそういう意味で、アニメ『虹ヶ咲』は一種の癒しの法則に忠実と言えそうな作品でもあろうと思えます。

 また、今回浮かび上がっている問題は、「一人で頑張る(一)」と「みんなといっしょ(多)」のスタンス的、精神的な相克ということでありますので。

 そこを解きほぐしていくにあたって。

 このような通常の論理では矛盾してしまう「一(一人で頑張る)」と「多(みんなといっしょに)」を、論理学的な排中律(はいちゅうりつ)を取り除いて同時に成立させるような考え方は、「一即多・多即一」といったりして仏教の華厳教(一般的に伝わりやすいイメージだと、いわゆる奈良の大仏様の背後に広がっている体系です)方面の思考法なので。

 これまた、『ラブライブ!』で描かれる精神の癒しの過程は仏法的なものだという話も可能となり(え)、最近僕が唱えている『ラブライブ!』仏法説に再び想いを馳せて、今回の記事も結びとなるのでありました。

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前回:『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期第1話の感想〜男性性と女性性の調和へ
前回:コラム:「鐘嵐珠(ショウランジュ)加入による「虹ヶ咲」の男性性の試練」へ
次回:『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期第3話の感想〜「自分」像の変化というバトンを受け取り、高咲侑の音楽がミア・テイラーを変え始めるへ

●当ブログのこれまでの『ラブライブ!』シリーズの感想↓

『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会(2期)』の感想

『ラブライブ!サンシャイン!!』の感想

(無印)『ラブライブ!』の感想