相羽です。

 戦争とか、感染症対策とか、経済危機とかいった事象が世の中に立ち現れてきますと。

 「功利的であれ」、「効率的であれ」、という方向の対抗策を掲げて、広めようとする人たちが現れてきたりします。

 ただ、ここで気をつけておいた方がよいであろうことは何か?

 それは、世の中には「功利的」であったり「効率的」であったりすることが、その人の本質としてとても苦手、という人たちがけっこういるということです。
 そういう人たちに無理矢理「功利的であること」、「効率的であること」を強制しようとすると、彼・彼女たちは少しずつ心と体を蝕んでいってしまいます。

 やがて、ほぼ活動不能になってしまったりもします。

 そのような「功利的・効率的なことが苦手な人たち」を救っていくために、「功利的・効率的でないことをするのが得意な人たち」(そういう人も世の中にはいます)は、こういう時こそ「功利的・効率的でないこと」をやって、表現していったりするとよいのではないかと思ったりします。

 今だと、ネットやSNSがあったりもします。

 「功利的・効率的でないことをするのが得意な人たち」の「功利的・効率的でない」表現が、「功利的・効率的なことが苦手な人たち」に届くと、「功利的・効率的なことが苦手な人たち」は癒されたりします。

(個人的な感覚で恐縮ですが、プラモデルを作っている人とかを眺めていると、僕はなんか癒されたりします。)



(勝手に功利的・効率的でないポジション扱いにしてしまってスイマセン。ノウライトさんは大らかだから許してくれるはず……。)

 心と体を蝕んでいってしまう状態に陥るかもしれなかった人たちが癒されるというのは、基本的にはイイことであるように思えます。

 そして興味深いことに、「功利的・効率的なことが苦手な人たち」の存在がちゃんと保たれているということが、「部分最適」ではなく「全体最適」の観点から解釈してみると、世の中にとって最終的にいちばん「功利的」で「効率的」であるような状態に落ち着いていったりもするのです(不思議……)。

 ……と。

 半身不随の母を18年くらい介護したりしてる、そんなにも「功利的」であったり「効率的」であったりすることはやれてないような感じの僕が、最近考えたりしていることでした。