相羽です。

 本日、9月30日で当ブログ「ランゲージダイアリー」を開設してから18年となります。

 最近はプリキュア感想と、時々読んだ小説の感想を書くくらいとなっておりますが、かろうじて、まだ継続している扱いで大丈夫なはず。(はず!)

 最近はですね。

 まだ新作の長編小説を書いてるのですよ……。

(えー!)
 そう。だいぶ前から書いてる書いてると言っていた新作の長編小説を、まだ書いているのです。

 当初は9月末日の「角川スニーカー大賞」への応募を目指していたのですが、間に合いませんでした。

 いったんは、今度こそ賞に応募する! 受賞する! と覚悟を決めたのですが。

 『ワンピース』でジョイ・ボーイが出てきて以来、



 「自由」について考えてるうちに、そもそも僕の場合、賞ってどうなのかなとまた思い始めたりもしている……といった状況です。

 賞って、なんか「条件」めいてるのがちょっと気になったりするのですよね。

 受賞という「条件」を手にしたから、自分はこうだ! みたいな? そういう「条件」を獲得した俺として周囲にアピールしたい!? みたいな? そういう状態に至りたいというのが少し(自分に)これまではあったのかもと仮定すると、最近の僕は何だかもうちょっと色々自由な感覚になってきたというか、別にどういう「条件」もなく、ただ書き、ただ読んでもらう。そのいとなみが一瞬であり永遠であり、読んでくれた読者さん一人が大事なその人であり宇宙の全てであり、一期一会なんだよなと(ちょっと最近の『FGO』の千利休さんっぽい!?)。

 いちおう、次は来年3月の賞の締め切りを目指して書いていこうとは思ってますが(目安になる面はあるので)、そんな感じなので、この(今僕の頭の中にある)新しい作品は、どうなるんだ? というのは、よい方に捉えれば未知数です(笑)。

 14万字くらいを予定している作品で、現在初稿を3万8千字くらいまで書いたという段階なので、そこまで遠くなくお届けできそうな気はしてるのですけどね……。

 がむしゃらに追うっていうよりは、普段の日々を陽気に暮らしていきながらって感じなのですが、「究極の文章」を書いてみたいと思って、この人生で追求してるところがあるのですよ。

 このあたりは、初期の動機が言語学ベースの「言葉」の探究だったあたりからですね。

 本が何冊売れたいとか、PV数いくついきたい、とかが数値化可能な目標に向かっていく「有限の領域」の話なのに対して、「究極の文章を書きたい」は、数値化もできなければ終わりもないという「無限の領域」の話です。

 どうも僕は、性質的に半分「無限の領域」の住人っぽいのですよね。そう、『無限の住人」です。万次です(キリッ)。



 「究極」とは言いつつ、頂き、神様の領域、宇宙の真理みたいな場所までは今生では(というか人間の有限の生では)至れないという前提なので、人生をかけて求道している「道」みたいな位置付けとなりますが。

 「究極」の求道とかの段階になってくると、人類700万年の精神史とかについての理解も深くする必要が出てくるので、最近は、『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』っていう本読んでたりします。

(700万年だと、いわゆる「旧人」からになるので、今の現生人類(ホモ・サピエンス)とどれくらい精神性が連続してるのかは一概に分からないところもありますが。)



 「究極の文章」とは、現在イメージしているのは読んだ人の身心の「ズレ」が解消されるような文章です。

 「世界に余裕をつくる」が我が人生のモットーなんだということも度々言っておりますが、「ズレ」の解消が起こった時に、ひとつ余裕が生まれると解釈しているので。

 「ズレ」はですね。ストレスが多い現代人だと多かれ少なかれみんな抱えてると思うのですよ。僕も、抱えていましたしね。

 「ズレ」、本来の自分の身心との「ズレ」が大きくなってくると、いわゆる「病(やまい)」という状態になったりします。あ、これは医学上の「病(やまい)」というか(それも含まれると思いますけど)、どちらかというと哲学とかの用語で出てくる「病(やまい)」の方です。

 そういう意味では、「病(やまい)」を解消したいみたいな志向性でも生きてるのですね。そう、生涯をかけて、僕は『ヒーリングっど プリキュア』になりたいのです(えー)。

 ちょうどブログ18年ということで、元々は母親が一生介護が必要になったので、生活形態を変える必要があってそれまでのホームページからブログに移行したという流れだったのですが。

 脳にダメージがあったので、あまりうまく「言葉」が出てこない母、とかも「ズレ」の状態だったと思うのですね。

 それを、僕なりに「言葉」を研究して18年とか母に接してきて、最近はある程度言葉でコミュニケーションも取れますし、母は毎週『鎌倉殿の13人』を観て笑って楽しんでいます(笑って!?)。

 ちと、医学的・科学的に再現可能な体系にまとめたりはできていない話でアレなのですが、僕なりに言葉・文章の力で「ズレ」の解消は起こり得ると、実感として持っている背景です。

 言葉で「ズレ」が解消した時は、「なるほど!」っていう感覚になりますね。いちおう、「なるほど!」ってなる文章をずっと追求しているつもりなのです。

 一人の人間の「ズレ」が解消した状態になると、その周囲の人たちの「ズレ」も解消していく性質があるので、これは大きくは世界平和につながる! とも思ってるのですね。

 俺が。俺たちが。『ヒーリングっど プリキュア』だ!

 そう。みんなで「俺ダム宣言」をしていくべきなのです(えー!)。

 『ガンダム』。

 『機動戦士ガンダム 水星の魔女(公式サイト)』がいよいよ始まりますね。

 もう、「PROLOGUE」の感想は書いたりしてましたけど。↓


参考:『機動戦士ガンダム 水星の魔女』前日譚「PROLOGUE」の感想〜技術革新と戦争の混迷の中で人間性の行方に想いを馳せる(ネタバレ注意)


 とりあえず、究極の文章を目指していくにあたって、まずは究極の『水星の魔女』に関する文章を書いていくところからかな、と思っています(そうなの!?)。

 我が人生のガンダムは何と言っても『機動戦士ガンダムSEED』ですが、シリーズ構成・脚本の両澤千晶さんのインタビューに、ざっくりとは、戦争の原因というと現実では宗教と経済が大きいですが、『SEED』では意図的にその二つの要素は薄めにしている……という趣旨のものがあったりしまして。

 『SEED』はそういう設計でとてもよかったと思います。

 だから、当時(なぜか僕にも)寄せられた、『SEED』は(経済とかの要素を描いていないので)本当の戦争を描いていない! みたいな批判に対しては、そ、それはそういう設計で作ってる作品だからでは!? としか言えない面がありました。

 なのですが、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』は事前広報から「数多の企業が宇宙へ進出し、巨大な経済圏を構築する時代。」と、「経済圏」という言葉をけっこうプッシュしていて、『SEED』よりは経済要素、最初から大きめに設計に入ってるのかなという印象を持っています。

 といっても、あくまでフィクションで、だから『水星の魔女』の経済が現実の経済でもどうこうみたいな話はする予定はないですが、この18年で日本史の再勉強とかはじめて、歴史的な「経済」についてもある程度理解度が上がってる状態の僕としては、『水星の魔女』の「混沌とした宇宙の経済」要素はけっこう楽しみだったりします。

 みんな! 大隈重信を勉強してから『水星の魔女』に突撃だ! 維新だ! 円の整備だ! 『水星の魔女』、新しい通貨を流通させます! な話とかないかな……。



 そんな感じで、まずは『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を観て、そして来年あたり(?)リリースできそうな僕の新作長編小説も読んでくれたりしたら喜びます。

 これからもいっしょに、色々と転換期な面白い時代を生きていけましたら幸いです。

 究極目指す僕らの旅路と、『水星の魔女』が始まるのに、祝福だ!



 『水星の魔女』OP曲「祝福」、CD発売はもう少し先だけど、各種配信サイトでは、もう明日10月1日から買えますぜ!

 YOASOBIの超ヒット曲・『群青』って、若い人向けの歌詞の気もするけど(おじさん発言きたーっ!)、やっぱり良い曲ですよね……