20240301seedblog

 相羽です。

 前回の『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想記事が、4万3千人以上に読んで頂いているというたいへんにありがたい事象となっておりますが。

 映画公開から一ヶ月ほどが経ち、観た方々の心の中でも色々な想いが熟成されてきてる頃のタイミングと思われ。

 また、僕も個人的に映画を三回観て、また書き記しておきたい文章が醸成されて出てきたという状況なので。

 今回、2つ目の感想記事を書かせて頂きます。

 記事中では映画のラストまでの内容に触れています。完全なネタバレ前提で書いておりますので、まだ観てない方はご注意下さい。
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 はじめに。

『機動戦士ガンダムSEED』シリーズで脚本・シリーズ構成を担当され、今回の映画でもプロットを遺されていた両澤千晶さんについて。

 長年、両澤千晶さんの作品について考えてきた僕なりの見解なのですが。

 彼女の紡ぐ物語・書く言葉の奥にあるのは、人生やこの世界の苦難の中で自分のことを蔑ろにしてしまいがちな人に、時に自棄を選ぼうとしてしまうかもしれない人に、そういう存在にも「言葉」が届いて、少しだけでも自由になってくれたなら、生きてくれたなら、という願いです。

 意外に思われた方もいるかもしれませんが。

 今・2024年3月時点での暫定的な見解ということわり付きとなりますが、でも現時点で僕が思うのは、これなのです。

「言葉」というものの限界を知り、疑いながらも、どこかで「言葉」の力を信じていた脚本家。それが両澤千晶さんです。

『機動戦士ガンダムSEED』の最終回。

 アスランが、物語をとおしてようやっと「ザフトのアスラン・ザラ」ではなくなってきたのに。

(アスランは、ラクスの「ザフトのアスラン・ザラ!(当初彼は「カテゴリ」としてのザフトに思考を依存していた)」の糾弾や、カガリの第31話の「殺されたから殺して、殺したから殺されて、それでほんとに最後は平和になるのかよ!」の言葉をとおして、少しずつ「カテゴリ依存」だった思考から解放されていく…というのが『SEED』の彼の物語です)

「カテゴリ(ザフトであるとか、コーディネイターであるとか)」は関係ない一人の「個」であり、「ただのアスラン」である大事な自分自身であるのに、最後の最後に世界の理不尽の前に、あるいは父の呪いが断ち切れないかのように(アスランの父は血のバレンタインでアスランの母を喪って以降「カテゴリ依存」の最右翼になっている人物として描かれています)、アスランは大事な自分自身をないがしろにして自爆、自棄の選択をしようとしてしまう。

 そこに、カガリが追ってくる。

 カガリが、アスランに「逃げるな。生きる方が、戦いだ!」という言葉をかける。

 その言葉で、アスランは生きようと思う。

 その時の言葉をアスランはずっと大事に思っていて、今回の映画の「強さは力じゃない。生きる意志だ!」という台詞にも立ち現れている…なんて辺りは、両澤さんの表現の奥にあるものが上述のような想いであろう傍証くらいにはなるかと思います。

 以上の「個」としての「生きる意志」にアスランが立ち返るにあたっての、障壁として出てくるのが、「ザフトだから/コーディネイターだから」といった「カテゴリ依存」の思考である、という順番なのだと思うのです。

 アスラン。母を喪った日から何かが欠けていて、「カテゴリ(ザフトのアスラン・ザラ)」や「役割(デュランダル議長も疑似父的)」で欠落を埋めがちゆえ迷い悩む人みたいな人物像ですが。

 このアスランが「カテゴリ依存」思考の制約を受ける→カガリとの出会いなどもあって言葉を受け取り、「カテゴリ依存(ザフトのアスラン・ザラ)」から解放され、「個」として「自由」な魂となっていく……

 といった『ガンダムSEED』の物語のコアの流れは、今回の映画『FREEDOM』でも踏襲されていて、やはり、「ナチュラルだから/コーディネイターだから」といった「カテゴリ依存」の思考から「魂」の制約を受けるパートが、前半、物語上の障壁・「タメ」として描かれています。

 「ナチュラル」や「コーディネイター」といった種族(と言ってしまいますが)は『ガンダムSEED』では、そこに思考を預けてしまう「カテゴリ」の意味合いが強い設定ですので、今回の映画で新たに出てきた種族、「アコード」もまた、そのような「カテゴリ」として「自由」や「生きる意志」に制約をかけてくる概念として描かれています。


●「アコード」という新たな「カテゴリ」から束縛を受けるラクスとイングリット

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』で「アコード」という「カテゴリ」に囚われかける物語が描かれるのは、主にはラクスとイングリットです。

 ラクスは「アコード」という「カテゴリ」であるならオルフェと結ばれるはず、という制約を受け。

 イングリットは「アコード」という「カテゴリ」であるからオルフェとは結ばれることはない、という制約を受けています。

 この二人が今回の映画で「対照」されるヒロインなのは、最終的なキラとオルフェの決戦にあたっての、それぞれのヒロインに位置付けられている点からも分かりやすいと思います。

 アニメイトタイムズのインタビュー記事でも、福田監督が、


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元々両澤が作ったプロットに、最終的には2対2になって、キラとオルフェの力は互角で、ラクスとイングリットのあり方が勝負を分けるという最終的なゴールまで書かれていたので、それに沿おうとは思っていました。

(『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』福田己津央監督がシナリオ面で一番悩んだこととは【インタビュー後編】より引用)

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 と述べた旨が掲載されています。

 ラクスは、無印『SEED』の第8話でキラに「あなたが優しいのはあなただからでしょう?」という言葉をかけた(あなたは「コーディネイターだから」といった「カテゴリ」ではなく、「個」であるあなた自身でしょう? という問いかけ)ように、第34話で「君は誰?」「私はラクス・クラインです」という対話をした(「カテゴリ」ではなく「個」である「ただのラクス」であるということを表明しているシーン)時のように、今回も自分は「アコード」という「カテゴリ」ではなく、キラを愛する「個」である「ただのラクス」であるというあり方を言葉で表現し続けます。

 そして、「アコード」という「カテゴリ」に準ずることに疑問を持っていなかったイングリットは、ラクスのその表現(言葉)に、揺さぶられます。


 ラクスーキラ(「カテゴリ」から自由/「愛すること・愛されること」に資格はいらない)

 イングリットーオルフェ(「カテゴリ依存」/「愛すること・愛されること」に資格が必要)



 イングリットとラクスが「対照」されているように、彼女のペアであるオルフェもまた、キラと「対照」されていて。

 オルフェは、『SEED』第34話〜第35話のキラのようにラクスの存在によって「カテゴリ」から「個」へと自由にはなれなかったキラであり。

 あるいは、カガリとの「殺されたから殺して、殺したから殺されて、それでほんとに最後は平和になるのかよ!」の対話などから「カテゴリ依存」がゆらぎはじめ、やがてアスランの中に生まれたゆらぎは抑えられないものとなってゆき、第38話「決意の砲火」で彼の行動として表現される……という物語を経験することがなかったアスランなのかもしれません。

「月刊ホビージャパン」の福田監督インタビューでは、オルフェ(たち)について、


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「とりあえずこの子たち全員が挫折を知らないエリートです。そして、自分たちのあらゆる価値観に対して疑問を持ってない。」

(HOBBY JAPAN 4月号 2024年2月25日発行・発売 より引用)

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……と、自分の価値観に疑念を抱いていないキャラクターであることが示唆されてもいます。


●とはいえ「ただのイングリット」になかなかなれずに「不自由」に生きる時期がある、イングリット、アグネスらも全否定されている感じではないという話

 ここからが今回の記事の本題なのですが(前置きが長くてすいません!)。

 とはいえ、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は「カテゴリ依存」から抜けることができず、「ただのラクス」として「無条件の愛」を表現するラクスのように、「ただのイングリット」にはなれないで生きたイングリットも、全否定するようなニュアンスの作品ではなさそうだということです。

 イングリット、確かに「アコード」という「カテゴリ」であるならこうあるべきという「カテゴリ依存」思考で「ただのイングリット」としてのオルフェへの気持ちを自分で抑圧してるキャラクターではあるのですが。

 中島美嘉さんの挿入歌「望郷」が流れるシーン。イングリットがラクスにナイフを突きつけ「それ以上近づいたら両目を潰すわ! 喉を切って、歌えなくしてもいい。歌えなくなったこの人を、それでもあなたは愛してると言えるの!?」(「条件付きの愛」の世界観) とキラに問いかけ、キラが 「ああ。例え目が見えなくても、歌えなくなっても、ラクスはラクスだ。そして彼女の全てを僕は愛している!」(「無条件の愛」の世界観)と答えた転換点からは特に、「アコード」という「カテゴリ」ならこうで当然という、彼女のこれまでのアイデンティティが揺さぶられている存在として描かれていますよね。

 ラストの、「もういいのよ、オルフェ…」「私は知っているから…」のところで「カテゴリ」から解放された「ただのイングリット」になっているのか、「カテゴリ」のまま、「アコードのイングリット」のまま全うしたのかは、解釈が分かれそうな所ですが、いずれにせよ全否定されているようなキャラクターではない。

 僕は、このようなイングリットにも共感します。

『SEED』第34話・第35話のキラのように「カテゴリ」から解放されて「個」として「自由」の翼をはためかせたり。

 今回の映画のキラとラクスのように、あらゆる「条件(愛する/愛される資格)」の束縛を無化して、「無条件の愛」の世界を表現する……というのには憧れますが、中々、そこまでいけない人も多いのも事実です。

 なかなか「カテゴリ」や「条件」を無化した「ただのイングリット」としては生きていけない。

 視聴者としては、誰でもどこかにイングリットのような部分もあるとも思うのです。

 この、「カテゴリ」に翻弄される時期もあると、いわば「自由」には生きられない「不自由」な時期にも、そういう時期なりに自分を大事に最低限生きてほしいというようなまなざし・寄り添いを感じるのは、アグネスというキャラクターのラストシーンにおいてもです。

 アグネスはラクスとは違ってキラのステータス(いわば今回の映画のテーマでいうところの「資格」・条件)を見ていて、キラが振り向いてくれないとなると、自分のステータスを評価してくれる/自分もステータスを評価しているシュラの元へと行ってしまう、という「カテゴリ」・「条件」に依存した側のキャラクターとして描かれていきます。

 それでも、そんな彼女も、彼女と対照的にこの映画の時点ではもうステータスとかどうでもよく、「ただのシン」を素朴に愛しているルナマリアに撃墜されてからは、生存し、涙を流している……というのが彼女のラストシーンです。

 その光景は、やはり彼女は全否定されているというよりは、ようやっと少し「カテゴリ」「条件」の束縛から解放されて、「ただのアグネス」として涙を流しているというシーンに見える。シンとルナマリアが撃ち落とされたアグネスに優しいまなざしを向けていて、そこには彼女が通った自分でも自分が分からないくらい翻弄されている時期の彼女の物語をも、慈しみ得るというようなニュアンスが感じられます。

 アグネスのような自分が負ってる心の負荷を「カテゴリ」「条件」などで埋めようとして世界に翻弄され、物語の過程では自分の本当の想いと離れていってしまうキャラクターというのは『SEED』と『DESTINY』でも描かれていて、例えば前者はフレイで、後者はシンです。


●『SEED』と『DESTINY』にもあった、フレイ、シンのような一時期「自由」には生きられなかった存在への優しいまなざし

 思い返せば、フレイにもシンにも、そんな彼女・彼が生きた過程を全否定しないというまなざしは、向けられていました。

 フレイは当初「ナチュラル/コーディネイター」という「カテゴリ依存」の思考をしていて、コーディネイターに差別感情を持ち、父が死んだ後は一時キラを利用しようとしましたが。

 そんな彼女も完全に否定されるべきキャラクターとして描かれていたという感じではなく、物語後半ではキラのコーディネイターという「カテゴリ」の部分ではなく「個」としての「ただのキラ」の部分に触れて、変わり始めている人間として描かれていきました。

 残念ながら変わり始めた後の新しい関係をキラと再構築していく前に、最終回で命を落としてしまいますが、「僕は それでも僕は 力だけが僕の全てじゃない!」と叫ぶキラを、「それが誰に分かる? 誰にも分からぬさ!!」とラウ・ル・クルーゼが反駁しかけるところで、フレイがカットインする最終回の一連の流れは、キラが決して力だけの存在ではないことを証明する(彼の優しさに触れて変わったフレイの存在があるので)『SEED』のテーマの結末的な場面にして、一時道を踏み外していたフレイの生きた過程をも全否定はしないといったニュアンスをも感じるところです。

 シンにしても、妹のマユと家族を失った悲しみを、ステラを喪った悲しみを、「カテゴリ」「役割(フェイスなど)」で埋めるようにして(そこには、デュランダル議長の誘導もあったわけですが)徐々に本当の想いから離れていってしまう過程が描かれるというストーリーラインの主人公でしたが。

 最後にはアスランの言葉が届いて(僕は、アスランが繰り返しシンにかけ続けた言葉は、やはり少しずつ彼に響いていたのだと解釈しています)、ギリギリのところでシンがオーブを討つ前に「カテゴリ」「役割」の束縛からは解放されるラストを迎えるというキャラクターです。

 ラストシーン、ようやっと自分の本来の想いに立ちかえることができて、オーブが撃たれなくてよかったと「ただのシン」になって涙を流すところは、やはり感動的です。決して、その生きた過程を否定されているような登場人物ではなく、むしろシンのように生きることもある。そういう状況・立場の人への愛を感じさせるキャラクターです。

 総じて、キラとラクスのような光だけでなく、シン、フレイ、イングリット、アグネス、そういう闇(今回の映画でシンの心の深層を「闇が深すぎる」と評する言葉が出てくるのでこの表現を使ってしまいますが)側の存在にも、寄り添っている作品であろうということです。

 シン、フレイ、イングリット、アグネス、そのような人生の一時期・物語の一過程においてちょっと「不自由」にしか生きられなかったキャラクターたち──それはあるいは現実世界にもいる世界の理不尽の中で今はまだちょっと「不自由」な人たちの写像で──、彼・彼女たちが両澤さんが言葉を届けたかった人たちのシンボルでもあるのかなと思うのです。


●『FREEDOM』が加わることで、『SEED』と『DESTINY』が調和した、「自由」への憧れと一時の「不自由」さに寄り添う慈しみとが両輪の魅力となる『ガンダムSEED』シリーズという新たな大きな絵へ

 結論として、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』には、


●「カテゴリ」や「条件」の束縛を無化して、「自由」を体現して「無条件の愛」の世界を切り開いていくような光よりの人たちにも、

●今の段階ではその人生・物語の過程で「カテゴリ」や「条件」の束縛を受けていてまだ「不自由」な状況を何とか生きている闇よりの人たちにも、



 両方へ向けた優しいまなざしがあります。

 そして、前者の代表としては『SEED』のキラ、後者の代表としては『DESTINY』の一時期のシンが想起されますので、自ずと『FREEDOM』は『SEED』と『DESTINY』の両作品が調和し昇華された位置付けの作品という解釈が可能になってきます。

 映画のラストシーン、前者側・キラとラクスの「無条件の愛」の表現の話は前回の感想で十分に書いたので、今回は後者側・それでも生きていってほしい者たち、まだ「不自由」だとしても、そういう人たちにも自分を蔑ろにしないで、生きていてほしいという願いが感じられる箇所について最後に書きます。

 ラストのアスランとカガリがハウメアの護り石と指輪を見せ合うシーンは。二人の現在の関係を示唆しているのはもちろんなのですが。それ以上に。上述のように「逃げるな!生きる方が戦いだ!」と「強さは力じゃない。生きる意志だ!」が対応してるということが意識される映画でしたので。「生きる」ということに想いを馳せてしまいます。

 人生やこの世界の苦難の中で自分のことを蔑ろにしてしまいがちな人に、時に自棄を選ぼうとしてしまうかもしれない時があるとしても、「生きる」ということを想起してしまいます。

 アスランなんて、かつて自爆して死のうとしていたし、さんざん悩んで迷走したりもしましたからね(『DESTINY』時代など)。それが、『FREEDOM』ではなんか自由で面白い感じになってズゴック乗ったりしてるわけですから、やはり何らかの言葉を縁(よすが)にとりあえず「生きる」ということには、希望が持てる感じですよ。

 そして、アグネス。

 生きていてくれてよかったということ。

 やっぱり、どこかでルナマリアの言葉も、アグネスに届いていたんじゃないですかね。

 こちら、2024年2月18日に開催された『機動戦士ガンダムSEED FESTIVAL〜FREEDOM 新たな未来(とき)へ〜』でのオーディオコメンタリーで、アグネス役の桑島法子さんが、当初はまた最後には死亡するキャラクターとしてオファーを受けていたという趣旨のことを語っておられたことに驚いたのですが(笑)。

 どの段階での変更だったのかは分かりませんが、ファインプレーの、「生きる」への変更だったと思います!

 このように、『FREEDOM』はキラとラクスの愛を描いた表現でありながら、キラとラクスにはなかなかなれない過程を生きていたイングリット、アグネス、かつてのシン、フレイなどへの慈しみの表現も同時に内包されていて、全体として調和している作品という印象となっています。

 さすがに、『SEED』の企画当時から最終的にそうなる予定だったということはないかと思いますが、今回、奇跡的に、

『FREEDOM』という新たなピースが加わったことで、自然と視聴者に『SEED』〜『DESTINY』の再解釈をうながし、『ガンダムSEED』シリーズ全体として新たな絵が浮かび上がってくる……という事象がタイムリーに立ち現れてきていると思います。

『SEED』〜『DESTINY』〜『FREEDOM』が20年の時を経て一つの流れとして繋がって腑に落ちるようになる……という不思議な力がある作品だと思います。『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は。

 以上。

「カテゴリ」「条件」といった束縛を無化して「自由」に「無条件の愛」の世界を表現していくような光への憧れと、なかなかそうは生きられないけど「不自由」な一時期なりに「生きる」闇的でも大事な存在たちへの慈しみの両輪が『SEEDシリーズ』の魅力として立ち現れてきていて。奇しくも『SEED』、『DESTINY』が調和して「生きる」こととして『FREEDOM』で表現されている。

 そしてそれらの土台には、脚本家・両澤千晶さんの人生やこの世界の苦難の中で自分のことを蔑ろにしてしまいがちな人に、時に自棄を選ぼうとしてしまうかもしれない人に、そういう存在にも「言葉」が届いて、少しだけでも自由になってくれたなら、生きてくれたなら、という願いがあったのでは、という話を今回は書かせて頂きました。

 僕自身も、映画の一回目を観た時は、ラストシーンではキラとラクスに目がいきましたが、二回目、三回目はアグネスに目がいきました。

 アグネスよかったなぁ。まだ十代だものなぁ。一時、そういう時もあるよ。でも、生きていてほしいよなぁ。などと思いながら映画館を後にしたのでした。

 改めて福田己津央監督、両澤千晶さん、あまたの制作スタッフさんたち、素晴らしい作品を本当にありがとうございました!

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 2024年2月22日(木)、22時30分〜23時00分でYouTube Live配信、


「アスラン・ザラ:かつて自棄を選ぼうとした男の、自由の闘舞(ロンド)と大地の女神、そしてズゴック〜劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想ラジオ」


 を行いました。


 今回はアスランとカガリの話をしております。

 ありがたいことに既に2000再生達成で、「アスランとカガリについての解像度がめちゃくちゃあがりました…。」「カガリの愛がアスランの翼になってシンを救った解釈にはっとさせられた。」などなどといったコメントを頂いております。

『SEED』第24話でカガリが「生命」(!?)な表現として蟹と雨が使われてる話や、最終回の「生きる方が戦いだ」の話、カガリの指輪の話、などなど『SEED』〜『DESTINY』〜『FREEDOM』という一つの流れの中でのアスランとカガリの話をしておりますので、興味がある方はタイミングが合った時に、アーカイブはこちらをクリックでよろしくお願いいたします〜。↓


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アスラン・ザラ:かつて自棄を選ぼうとした男の、自由の闘舞(ロンド)と大地の女神、そしてズゴック〜劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想ラジオ/YouTube


『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』公開をきっかけに改めてやる気を出して色々やっていこうかなと思っているので、YouTubeのチャンネル登録とXのフォローの方、ぜひぜひよろしくお願いいたします〜(最近ですと、やはりブログよりもYouTubeやSNSの時代という感じですので……)↓


相羽のYouTubeチャンネル(わりと開設したて)

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 映画上映期間中にお届けした文章&音声で反響が大きかったものをまとめた電子書籍です。5万人に読んで頂いた「三つの愛」の感想記事&大人気のアスランとカガリの話をしたラジオ(書き起こし)などを収録。

 永久保存版のつもりで、僕の現時点の『ガンダムSEED』愛の全てを置いてきた文章作品となっております。タイミングが合いましたらよろしくです〜。↓

smilestoryblog
小さな言葉を重ねて〜『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』で笑顔になれた話

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 映画に合わせて久々に色々読みたいという方向けの、過去に僕が書いていた『ガンダムSEED』関連のテキストはこちらとなります。↓

・ブログ「ランゲージダイアリー」の「DESTINY」感想↓

https://aiba.livedoor.biz/archives/cat_332507.html


・古のHTMLサイト「mot×mot」の「SEED」感想↓

http://www3.plala.or.jp/languagelanguage/seed/seed.html


・キラとラクスの関係は描写不足だったか?↓

https://aiba.livedoor.biz/archives/8938988.html


・ガンダムSEED-DESTINYにおけるシンという主人公の役割↓

https://aiba.livedoor.biz/archives/50479612.html


・伝説のテキスト(自分で言っていく方向)「フリーダムなキラ」↓

http://www3.plala.or.jp/languagelanguage/seed/0306.html#seed030612

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 ありがたいことに50000人以上(!?)に読んで頂いている、前回の感想、↓


劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想〜三つの愛──無条件の愛、明るい愛、故人の愛(ネタバレ注意)


 も、引き続きよろしくです〜。

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