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 相羽です。

 今回は、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』第9話「シャロンの薔薇」の感想です。

 ネタバレ注意です。
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『初代ガンダム』のラストの有名なアムロの「帰る場所」に関する台詞。

「ごめんよ。まだ僕には帰れる所があるんだ。こんなにうれしい事はない。わかってくれるよね。ララァにはいつでも会いにいけるから」

 について。

 ララァはアムロの「帰る場所」とは逆の位置だった。遠い場所にいるのかもしれないけれど、ニュータイプ的には「ララァにはいつでも会いにいけるから」のポジションが彼女。一方、アムロはある意味地に足がついた現実の「この世界」の「帰る場所」を自覚する……くらいの意味合いにこれまでとらえていたのですが。

 今回、ジークアクス版の「もしも」のララァが描かれて、もう一層、ララァにはアムロのような「帰る場所」がなかったという深みもある台詞だったんだなぁということに気づいたのでした。

 娼館での暮らしは、ちょっと「帰る場所」とは言いづらい側面があります(もちろん。様々な状況・環境・運命線の中で、そういう暮らしをしている人を全面的に否定するつもりはありませんが)。

 その上で、正史・『初代ガンダム』でのララァでも、ジークアクス版のララァでも、描いているテーマは「無条件の愛」であったんだな、と改めて気づいたという話を今回は書かせて頂きます。

 まずは、五木さんという方が書かれているこちらのnoteを読んでみてほしいのですが。↓


参考:「Let's get the Begining」から読み解く愛の物語/機動戦士ガンダムGQuuuuuuX/ジークアクス


 第1話でマチュに送られてきた謎のメッセージ「Let's get the Beginning」。

『初代ガンダム』でアムロとララァのシーンで流れる曲に「ビギニング」という題名の曲がある。アムロとララァのシーンで描いていたのは「愛」であるから、このメッセージには「さぁ。愛を探しにいこう」という意味にとれるコノテーション(含意)があるのではないか、というお話です。

 では。『初代ガンダム』でララァというキャラクターをとおして描かれていた「愛」とは?

 それはもちろん、「無条件の愛」です。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』から続いて、ガンダムシリーズとしては二作連続「無条件の愛」が重要なテーマになっている作品。


参考:『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想〜三つの愛──無条件の愛、明るい愛、故人の愛(ネタバレ注意)/ランゲージダイアリー


 というか、僕は『水星の魔女』も登場人物たちの意識・存在が「条件付きの愛」から「無条件の愛」へと変わっていくまでのお話だと解釈しているので。


参考:『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第1話の感想〜「無条件の世界」による「条件付きの世界」への反撃の狼煙(ネタバレ注意)(追記あり)/ランゲージダイアリー


 ほぼほぼ、ガンダムシリーズは三作連続「無条件の愛」の話だなと。

 時代かなぁ、くらいに思っていたのですが、というか、『初代ガンダム』が「無条件の愛」を重要なメッセージの一つとして描いていた作品だから、最近の作品も『初代ガンダム』に誠実にリスペクトを払って、「無条件の愛」が題材になるように制作されてもいるってことか、と気づいた、という話をここから書きます。

『初代ガンダム』のララァをとおして描かれていた「無条件の愛」とは?

 今回のジークアクスの第9話でジークアクスのララァが、正史ララァの夢を見てシャアのこともアムロのことも好きだったという趣旨のことを話していて、ハッとしたのですが。

 ララァ、シャア、アムロの関係については、これまではいわゆる「三角関係」を描いていたのかなぁくらいにとらえていたのですが(物語論的には「三角関係」は普遍的な題材であるとされています。)。

 子どもの頃に『初代ガンダム』を観た頃の感覚から、大人になってもうちょっと言語化できる段階になって語ってみるなら、


「カテゴリ」レベルでのアムロとシャアの対立を、無効化するのがララァの愛


 ……ということを描いていたんだなと。

「カテゴリ」レベルでは、アムロは「連邦軍」でシャアは「ジオン軍」で、双方は戦争しているので戦い合うしかない。つまり「カテゴリ」に依存したものごとの捉え方では「条件付きの愛」が前に出るしかない。「連邦軍」という「カテゴリ」に利するなら、「愛」というポイントを付与しようみたいな感じ。

 まさに「条件付きの愛」で、今になって、あ〜、分かってきた! ってなってるのですが、シャア・アズナブルって、「条件付きの愛」に振り回されるという造形のキャラクターですよね!?

 一方で、「カテゴリ」レベルを無化して、より純粋な「愛」のレベルでとらえれば、そこは表層的なものは剥がれ落ちた、魂レベルで大事なものだけの世界なので、ララァは、「カテゴリ」レベルでは対立している、シャアもアムロも、どちらも愛してしまう、ということがあり得ると。

 ララァのそれは、「ジオン軍」だから愛したとか、「連邦軍」だから愛した、とかではない、ただシャアだから愛した、ただアムロだから愛した、という「無条件の愛」の世界です。

「愛」のレベルではどちらも深く愛し得る。

 このような「カテゴリ」依存の思考から脱却して「無条件の愛」へと向かう物語というのは、長年僕が書いてきたレビューの文章などを知ってる方にはお馴染みの、まさに『ガンダムSEED』シリーズのテーマですが、1979年の時点で、『初代ガンダム』はこれを既に描いていた。やはり、富野由悠季監督はすごいと思います。

 と言いますか、『ガンダムSEED』シリーズ自体も、かなり『初代ガンダム』のエッセンスを大事に継承しながら制作されていたということにも、改めて意識が向くのです。

『ガンダムSEED』、「連合」と「ザフト」という「カテゴリ」で分たれたキラとアスラン……という構図から始まる物語は、『初代ガンダム』のアムロとシャアの構図を踏まえていたりなのですね。

「カテゴリ」レベルでは対立するが、「愛」のレベルでは通じ合える(かもしれない)という方に物語のベクトルが向かっていくのも、重なります。

 第40話(対立し、殺し合いまでしたキラとアスランが再び合流する回)は、『初代ガンダム』であり得なかった、「カテゴリ」に翻弄された二人が、もう一度通じ合える風景を描いている。キラとアスランをとりもっているカガリは、もし生きていたらのララァかな。

『ガンダムSEED』シリーズのシリーズ構成・脚本の両澤千晶さんが、『ガンダムSEED』の企画時に、『初代ガンダム』を考察した文章(資料)がある(今のところ一般に世に出されたりはしていない)という話も、吉野弘幸さんのインタビュー(「週刊文春エンタ+」)に出てきていたりします。

 表面的なオマージュとかだけじゃなく、「思考のカテゴリ依存からの脱却」、その上での「無条件の愛」の尊重。といった『ガンダムSEED』シリーズの題材も、『初代ガンダム』を読み解いた上で、継承し、うまく2002年〜2004年頃の文脈にコンバートして描いていたものでもあったんだな、と改めて思ったのでした。

 では、原典の創作作品を尊重して、新たな表現へとたくすという人間の精神的ないとなみとは何なのか?

 それはおそらく、虚構の世界へ行ってしまうのではなく、あくまで虚構(創造・表現)にたくすということ。

 今回のジークアクス第9話では、カバスの館でマチュをお世話していた二人のお手伝いのうち、カンチャナが館を燃やしてしまうのは、今いる状況、現実を否定的に捉えていたマチュと同じ(コロニーでの暮らしを「偽物」と感じて否定的にとらえていた)方向の精神のベクトルからの行動です。

 でも、今いるところを否定して燃やして宇宙へ、空想の先的な世界へ、キラキラ的世界に旅立とう……というのはちょっと違うという文脈がずっとある作品です(そしてこれは、もちろん『初代ガンダム』もそうです。アムロは、ニュータイプ的な世界へ行ってしまうのではなく、「帰る場所」へと帰ってくるのですから)。

 今話でジークアクスのララァも、マチュにたくしながらも、自分自身はそちらに行ってはしまわないで、つらいこともある現実にとどまるという選択をくだします。そのこと自体は、おそらく否定的に描かれていない。

 エヴァンゲリオンもそんな感じの結論のお話でしたからね。つらいこともあるかもしれないけれど、現実を普通に生きることは、大事だということ。すると、そこが「帰る場所」になったりもするということ。

 ジークアクスでずっと「母」的なる、「本物」的なるもののシンボルとして描かれていた「地球」で、マチュはついにメタフィクション的にも「本物」である、正史『初代ガンダム』のララァ=シャロンの薔薇と出会う……という展開ですが。

 僕としては、やっかいであるように感じることもあるし、でもやはりアマテのことを愛しているような。やや「進路」であるとか、お父さんがどう思うかとか、「条件付きの愛」よりのことも言ってしまうのだけど、その根底にアマテへの「無条件の愛」もあるような、アマテの母との関係に、テーマの一つは収斂していくような予感を感じています。

 どう描くのかな。やっぱり、「家族」は(やっかいではあるかもしれないけれど)「帰る場所」になり得る、みたいなお話なのかな……。

 ガンダムとエヴァンゲリオンという、ある意味日本発の二大アニメーション作品のメッセージが合流してきているような感覚もあり、ジークアクスは、日本発の文化作品の総体的な作品になってきてるなぁと、しみじみしてしまったりもしているのでした。

「Let's get the Beginning」

 マチュ。アマテ・ユズリハの、「ビギニング」を、「愛」を、「はじまり(初代『ガンダム』)」を探す物語がどこに向かうのか。

 あと3話かな? 楽しみに、見届けたいと思っているのでした。

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『ジークアクス』の感想などは最近はnoteの方に先にアップしているので、よかったらよろしくです〜。↓

相羽裕司のnote

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 ガンダムシリーズ関係の文章を色々と書いております!

 20年くらいブログをやっていて、いちばん読んで頂いた(5万人くらい!?)ブログの代表的な記事です〜↓

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想〜三つの愛──無条件の愛、明るい愛、故人の愛(ネタバレ注意)

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前回:『機動戦士ガンダムジークアクス』第8話「月に墜(堕)ちる」の感想〜ニャアンの「帰る場所」(ネタバレ注意)

次回:『機動戦士ガンダムジークアクス』第10話「イオマグヌッソ封鎖」の感想〜仏教の悟り(差取り)の話とニュータイプ論の一区切り(?)(ネタバレ注意)

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