
相羽です。
今回は、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』第10話「イオマグヌッソ封鎖」の感想です。
ネタバレ注意です。
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マチュ、ニャアンのそれぞれの心理的バックボーンにいる、シャリアとキシリアの「自由」のあり方の対比に、最終局面が整えられていく感じに。
●シャリアの「自由」〜もう死んでもいいくらいの気持ちで全てを手放した時に生まれる世界との「悟り(差取り)」
シャリアの方は、木星でそれまで囚われていたもの(ジオンの期待など)が全てどうでもよくなった時。死んでもよいくらいに思った時。よく言えば、全てを手放した時の「自由」。
これは、ざっくりとは仏教の「悟り」だよなと思いました。
「悟り」は一説には「差取り」で、自分との関係、自分と世界との関係、自分と相手との関係などで生じる「差」を適切に取れる境地と言われたりします。
アマテのお母さん(タマキ)との関係にエッセンスが描かれていると思いますが、正論でもなんでも従わせる(支配する)パワーが前に出ると、相手との「差」がうまく取れず、(マチュなら母への反発というかたちで)戦いの状態になっていきます。
母への反発というかたちですが、マチュはマチュの方で、自分の方の言い分、心の方向性の方に母が従ってほしいという志向性が前に出て、そのミクロな心理的なパートがバトルパートにも出るような序盤の描かれ方でした。第1話などは、今思うと力で自分の志向性を押し通した的な勝利の位置付けのように思えます。
こちらの力で相手との距離をどうこうしようという方向は、力の拡大競争には終わりがないので、共栄のためには適切な「差取り」大事だとされています。
ニュータイプとかの話的にも、心と心がダイレクトアクセスではやはり健全でない気がするし、一方で逆ニュータイプ的に相手を理解する態度が薄すぎて相手との距離が離れ過ぎればそれも不和になりやがて戦いになる。大事なのは、相手との「差」を(適切に)「取る」ことだというのは、かなり納得なのです。
マチュは、前回のララァとの出会いと出来事から学んで、必ずしも理屈や正しさや力で相手を支配しない領域を学んだ。
前回のララァとのイベントを経て、マチュが今話では(適切)な「差取り」に入っているのは、制服にまつわるもろもろのシンボルで表現されています。
マチュはもともと制服が嫌いなキャラクター造形で、おそらく、母親を投影した、前述したパワーの押し付けに反発して制服をきっちり着たりはしない人物だったのですが。
前回時点では、まだコモリさんが準備した服に、ジオンの軍服なんかダサいとあからさまな反発をみせているのですが、今話では、コモリさんが準備してくれてるコモリさんの私服に、感謝の言葉を伝えられるようになっています。
コモリさんという他者との間の「差」が適切に取れるようになってきたという描写であると思いますし、より彼女の根本にある母親との関係でのうまい「差」の取り方が分からなかったというのも、今話では、何かしら適切な「差取り」というものに開眼し始めているのだと思います。
この制服にまつわるシンボルは、ジオンの軍服を迷いなく着ているニャアンとの、明確な対比となっています。
●キシリアの「自由」〜生存競争を「生きる」ための手段を問わない強さの拡大
一方で、キシリアの方は強さの「自由」。
シャリアの「悟り(差取り)」的な自由に比すると、生きる、闘争、生存競争といった価値観が強い自由のように感じます。
言い方を変えると、世界を自分に合わせさす、自由。といった感じですが、これは、第5話でニャアンがはじめてキラキラを体験した時の心理に重なります。で、そのためには強さが必要ということを言ってるのがキシリア。
ただ、もはや世界が合わせてくれる、世界を合わせさすには、毒殺でも大量殺人でもして生きるのが強さだというあたりまで今話では踏み込んでいる感じで。僕としては、今のところ前述のシャリアの自由の方に共感してしまうところがあります。
●シャリア・ブルを就職氷河期世代くらいに思うと、悟り(差取り)感はむしろカッコいい
正史初代ガンダムとは連邦とジオンの勝敗が転覆・反転しているように、容易に信じていた価値観が転覆・反転し得る中で、自分はどうあるのか、というのを描いていると思われる『ジークアクス』という作品。
信じていた価値観が転覆・反転し得る状況というのは、リアルでは第二次世界大戦〜敗戦あたりを意識してるのかなという話は以前Xで書いたりしました。
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信じてたものが全て砕け散って崩壊して、それでも残った大事なもののために立ち上がるっていう展開が日本の漫画やアニメに多いの、やなせたかしも含めて、手塚治虫とかあの頃の先人が戦争と敗戦を経験して価値観が転覆する世界で、抽出された愛とかを表現してきた延長線上にあるとは思ったりします。
(相羽のXより)
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あと、ぐらすさん(わく3333さん)なんかは、安保世代(学生運動)〜あさま山荘事件での社会の雰囲気の反転あたりも意識下にあり得るみたいな話も書かれてるのですが。
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この文脈を「地球の海」を求めて親に反抗したマチュ、親のいないニャアンに重ねる。そこにギレン・キシリア兄妹とニュータイプ(他のアナザー・新しいガンダム)を重ねる。
親世代(戦争世代→安保世代→バブル世代→氷河期世代→2025年世代)と同世代(アナザーガンダム)にどう向き合うのか?
これか?
(ぐらすさん(わく3333さん)のXのポストより(元ポストはツリーでもっと長いです。))
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加えて、今回のシャリアにかなりスポットがあたってる中で、僕は就職氷河期世代の話とかもかかったりするのかもな、と思ったりしました。
ある意味、よい大学を出てよい会社に就職して幸せな結婚をして……みたいな信じていた価値観が転覆・反転したのを経験した人が多いような世代ですよね。
シャリアって、劇中で三十代、四十代くらいですか? だとすると、わりと重ねてみるのにマッチする世代のような気も。
信じていた価値観が全部どうでもよいくらいになって、ある種の悟り(差取り)に至るってなんかカッコいいな。今話で、なんだかシャリアへの共感度が爆上がり中です(笑)。
僕も仏教とか神話が好きで、区分的には就職氷河期世代だと思いますしね。親の介護とかしながら、悟り感たずさえていってがんばるよ。
ただね。シャリアはまだシャア関係がもう一つ何かありそうですからね。何しろ、価値観の転覆・反転を扱ってる作品なので、今回書いたような彼の悟り(差取り)的な話が、あと二話で一気に転覆・反転する可能性はまだあるなとも思っております(笑)。
●「天」を関する「アマテ」として結末に向かう主人公
マチュもさ、「アマテ・ユズリハ」だし。ニャアンとの出会いとか神社が印象的な場所になっていて、ずっとやっぱりそういう方向は意識されてましたよね。「アマテ」ラスとか、ざっくりとは「アマテ」は神話系要素(日本では仏教といわゆる「習合」していく)で、方向としてはやはり「悟り(差取り)」なんじゃないかなと思います。
自分と相手との「差」を適切に取り続けるようお互いに努力しようというのは、シンプルにして、ニュータイプ関係の話の一つの区切りのようにも個人的には感じたりするので(世の中にたくさん出てるといういわゆる「ニュータイプ論」をそんなにも知らない中で書いていて恐縮ですが)。
転覆・反転し得るある極点と極点の間を漂っている「クラゲ」から、ある極点と極点の間の「差」を取る「アマテ(天)」へ。
サイド2から避難してきたという被害者から、今回たくさんの人を殺したという加害者になった、転覆・反転したニャアンの「差」を取ってあげられるのは、アマテなのか?
マチュとニャアンの「差」が(適切に)取れた時、ニャアンの「帰る場所」が立ち現れるみたいなエンドがいちばんハッピーエンドじゃないの!? などと思いながら、戦々恐々と残り二話を待つのでありました〜。
参考:『機動戦士ガンダムジークアクス』第8話「月に墜(堕)ちる」の感想〜ニャアンの「帰る場所」(ネタバレ注意)
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『ジークアクス』の感想などは最近はnoteの方に先にアップしているので、よかったらよろしくです〜。↓
●相羽裕司のnote
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ガンダムシリーズ関係の文章を色々と書いております!
20年くらいブログをやっていて、いちばん読んで頂いた(5万人くらい!?)ブログの代表的な記事です〜↓
●『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想〜三つの愛──無条件の愛、明るい愛、故人の愛(ネタバレ注意)
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前回:『機動戦士ガンダムジークアクス』第9話「シャロンの薔薇」の感想〜初代ガンダムで描かれていた「愛」についてようやくちょっと分かった(ネタバレ注意)
→『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』の感想目次へ
他には赤いガンダムの最新×初代のデザインの組み合わせが面白いとか、「釘宮理恵さんが主人公の母親やったり名塚佳織さんがキシリア様やる時代か〜」なんて思ってました。
大体の枠組みを理解した上で見るのもまた別の楽しみがあるかも知れませんね。